『Civilization5』戦争は政治の手段

『Civilization5』をプレイしています。

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Civilization』と言えばストラテジーゲームおける1大シリーズですが、これまでプレイしたことがなく、本作がシリーズ初プレイとなります。これも昨年のウィンターセールで購入しました。全DLC入りで¥1200ほどでしたのですごく安かったです。

最初に最低難易度(開拓者)でシングルプレイを試し、全勝利条件(軍事、文化、外交、化学)を達成し、現在はシナリオを攻略中で、ようやく半分ほどこなしました。各シナリオのプレイ状況としては、

 

ヴァイキング 運命の年(難易度:皇子)

 デンマークでプレイ。ドゥームズデイ州議会は5つ作成したが、ロンドン陥落直前でターン終了。戦闘を慎重に進め過ぎて時間が無くなりました。

モンゴルの台頭(難易度:皇子)

 金、中国、ペルシアを征服後、インドを残り1都市残してターン終了。ペルシアとインドはある程度同時に進行しないとターン数が足りない、、、

アフリカ争奪戦(難易度:皇子)

 フランスでプレイ。全ターン終了後ポイント数で3位となり勝利条件未達。最後の10ターンで長距離鉄道のポイントを奪われたのが痛かった。

ローマの没落(難易度:将軍)

 ササン朝でプレイ。危なげなく勝利条件達成。難易度を落としたこともあるがササン朝は有利なのでなおさら楽。西ローマならこの難易度でも危なかったかも。

侍の挑戦侵入(難易度:将軍)

 日本でプレイ。ソウル、南京を占領して勝利条件達成。しかし90ターン以上かかったので難易度からするとかかり過ぎか。素直に北上せず海上から攻めればもっと短くできたはず。

 

同じシミュレーションのカテゴリでも、以前プレイした『Factorio』とは全く異なるゲームですが、これもやめ時がなかなか見つからない困ったゲームです。ついついあと1ターン、あと1ターンと繰り返すうちに2,3時間はかるく過ぎてしまいます。

最近になってゲームを再開した身としては、それほどシミュレーションゲームに詳しいわけでは無いのですが、『Civilization』は私の知る『大戦略』や『信長の野望』などのいわゆる戦略シミュレーションゲームとは大きく異なり、軍事的に相手を制圧することだけが勝利とはなりません。それ以外にも勝利条件が用意されており、それぞれの条件に適したプレイを楽しむことが出来るのが楽しいです。まあマルチプレイでやるのであれば相手を制圧するのが最も簡単だと思いますが。

しかしNPC相手のシングルプレイをやっていると、軍事的な勝利(事実上相手都市を全占領する)が一番面倒くさく感じますね。結局それなりの軍事ユニットをそろえ、そのコストを維持し、都市の不満度を抑えることを考えると、他の勝利条件(特に外交や科学)を達成するほうがよほど楽です。このあたりはなかなかよく考えられていると思いました。

プレイ時間も100時間を超え、そろそろ別のゲームにまた手を出しましょうかね。

NHKドキュメンタリー「シリーズ“脱炭素革命”(3)「激変する世界ビジネス グローバル企業の挑戦」」:最後はやや尻すぼみ

NHKドキュメンタリー「シリーズ”脱炭素革命”」の3本目「激変する世界ビジネス グローバル企業の挑戦」を視聴しました。

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脱炭素革命の潮流を、金融面から追った1本目、電力事業から捉えた2本目に続く3本目は、個別企業の取り組みを追った内容でした。

どちらかと言えば各企業の取り組み紹介と言った内容であるため、個別事例としては興味深くあるものの、1,2本目のように目新しいトピックが織り込まれたものではありませんでした。とは言うものの、世界最大のCO2産出国である中国の脱炭素への取り組みにはやはり驚かされます。パリ協定前の京都議定書のころはCO2削減なんて箸にも棒にもかけない、と言った態度であったのに、精々10年でこの変わりようです。

結局大気汚染などの環境問題が、内政面でも無視できないレベルに達したことが一つの原因ではあると思われますが(中国は外圧では容易に政策を変える国ではない)、一方でその方針転換の速さと、潮流を自身の利益追求に結びつけようとする強かさはさすがと言うより他ありません。

一方で日本の場合、未だに石炭火力発電を推進しているということで、COP23で「環境に悪影響を与える国」として非難されている様子が番組でも紹介されていました。こと”脱炭素”の分野では既に中国が推進役である一方、日本は時代遅れの悪役扱いとなっている姿が非常に対照的です。いまだに国内では日本は優れた環境技術を持つ環境先進国で、中国は大気汚染のひどい公害大国という認識を持っている人は少なくないと思いますが、こと”脱炭素”のテーマに関しては日中のイメージがすでに逆転しつつあることはもっと多くの人に知られても良いでしょう。

シリーズ3本を通して観た印象として、このままこの”脱炭素”の潮流が進めば、10年とは言いませんが30年後の産業や我々の生活には大きな変化が免れないでしょう。日本は現在その流れにうまく乗り切れていない印象が否めませんが、人口減少が続き、エネルギーの急激な増加が見込まれず、すでに省エネ化も進んでいる日本は”脱炭素”には取り組みやすい環境でもあるはずなのですね。現在はその環境がかえって危機感の醸成を妨げているようですが、この番組を一例として”脱炭素”の潮流に対する啓蒙が進んでゆくことが期待されます。

最後に2点ほど本シリーズを観て感じた疑問をメモ代わりに残します。

 

・鉄鋼産業と”脱炭素”の関係は?

石炭を大量に消費し、CO2を排出する産業の代表と言えば鉄鋼産業ですが、その鉄鋼業界の”脱炭素”への取り組みへの言及がなかった。鉄が”産業のコメ”である現実は早々に変わらないと思うが、一方でコークス炉中心の鉄鋼業が電炉化する流れは生産規模、効率の面で考えづらい(この点は自分の知識が十分ではないからかもしれないが)。金融業界脱炭素への取り組みに乏しい企業から投資を引き上げる方向に動いているらしいが、鉄鋼業界はその対象となっているのか?まさか生産を途上国で行うから問題ないというわけでは無いでしょうし(欧米の機関投資家はこのあたりの選定基準が厳しいと聞いているのだが)

・”シェール革命”との関係は?

米国のシェールガス・オイルのリグ数は現在でも増加傾向にあるのですね。

https://jp.investing.com/economic-calendar/baker-hughes-u.s.-rig-count-1652

2016年に一度底を打って以降、緩やかに稼働数は上昇しています。これは脱炭素の潮流からすれば明らかに逆行とも言える動きなのですが、稼働数が増えているということはその分投資も増えているはずなのです。この点も少々気になりました・

NHKドキュメンタリー「シリーズ“脱炭素革命”2▽激変する電力ビジネス」:正にパラダイム・シフト

シリーズ”脱炭素革命”の第2回を視聴。

www.nhk.or.jp

投資と金融の面から脱炭素への潮流を追った第1回に続き、第2回は電力ビジネスで今起きている再生エネルギーへのシフトを追った第2回。タイトルこそ「激変する電力ビジネス」となっていますが、ビジネスのみならずこれはもう電力の生産・使用に関するパラダイム・シフトと言うべき流れが現在起きているのだということがよくわかる内容でした。

番組の舞台はドイツ。現在EUで最も意欲的に再生エネルギーの普及を行っているその取り組みが紹介されます。ドイツの再エネへの取り組みはネット上で一部の層から失敗として揶揄されることもありますが、それらの意見の正誤も理解できる内容であると感じました。いくつか印象的な内容を箇条書きにすると、

・再生エネルギーの発電コストは火力・原子力と比較しても遜色ないレベルまで低下している。(この点は第1回でも触れていました)

・一方でドイツではこの15年間で電気料金は2倍近く値上がりしている

・値上がりの主な要因は再エネ普及に関する税金や普及コスト。電気料金の値上がりを重荷に思う市民、企業は多い

・そのため、企業では自社での発電を含めたエネルギー管理を重視し、エネルギーの他社依存からの脱却の流れが生まれ始めている

・再生エネルギーへのシフトは、電力会社のビジネスモデルに大きな変更を強いることになる。

・従来のモデルでは、上流(発電)は少数の大規模な発電所(火力、原子力)で電力を集中して生み出し、下流(送電)に流していた。このモデルでは電力の安定化のカギを握るのは上流であり、下流は複雑な管理は不要だった。

・再エネへのシフトが進むと、上流(発電)は多数の中小規模な発電所(風力、太陽光等)に分散する。各発電所の電力量や安定性にはむらがあり、そのため安定化のカギを握るのは下流となる。

・電力会社にとっての利益の源泉が発電から送電へのシフトする傾向にある。(送電網の建設・維持には膨大なコストがかかるので、巨大電力会社は今後発電から撤退して送電に経営資源を集中する流れが生まれつつある)

・再エネへのシフトに伴う送電網の管理の複雑化と負荷の高まりは膨大であり、そのため発電量・消費量の予測を基にした管理が不可欠となっている。(予測ができないと送電網が負荷に耐えられない。正に時間単位で発電量の調整を行うことも行われている)

・そのためビッグデータを活用した生産、消費量の予測技術のニーズが高まり、そのビジネスチャンスも広がっている。

・今後はスマートメーターの普及と活用を進めることで、より生産・消費量の予測精度を向上させるのみならず、そこから得られるデータを活用した新たなビジネスも見込まれる。

 

などなど。1消費者としては感じるものは少ないかもしれませんが、電力の生産・消費・管理と言う面で構造が大きく変わりつつある現状がよく分かります。番組の中でリコーの執行役員の方が「日本での環境への取り組みは専らコスト削減だが、欧米ではすでに新規の事業開拓となっている」とその意識のずれを語っていましたが、その言葉を鑑みるとやはりこの「脱炭素」の流れは止まらないと感じさせられます。すでに「地球環境が危ないから」とか「コストを削減すなければ」といったいわば後ろ向きの理由からの取り組みではなく、「脱炭素」を積極的に新しいビジネスとして展開しようとする取り組みにシフトしているとすれば、そう簡単に流れと言うものは止まるものではないからです。

日本の場合、発電における再エネシフトへの取り組みがどうしても見劣りしますが、平地の少ない島国であるという特性上やむをえない部分はあるのでしょう。(番組では触れられませんでしたが、欧州では国を超えて電力の売買が可能なので、総発電量のうち一定程度外国に依存する部分もあります)

一方送電に関しては、スマートメーターの普及は3割近くとなっており、意外にスマート化が進んでいる印象を受けます。もっとも日本の場合、ハードの普及は迅速なのに反して、ソフトやデータの活用やマネジメントの変更が遅れがちなので、メーターの普及で満足しないことが望まれます。

また、番組ではドイツの取り組みをかなり肯定的に紹介していましたが、それでも炭素燃料による発電の割合はいまだ高く、また再エネ普及への取り組みにも日々見直しの目がかけられていることも事実なようです。

ドイツ|データ集|一般社団法人 海外電力調査会(JEPIC)

さらにもう1点気になったのは、再エネへのシフトに伴う送電網の管理の複雑化です。上流も下流も分散化し、発電側が天候にも左右される再エネ後の電力運用はすでに人の手では管理できないほど複雑化しています。工場の生産管理や企業の業務システムの開発に関わった経験のある方なら理解できると思いますが、システムが複雑になるほど細かい障害は多くなり、その複合的な発生による大規模障害が発生するリスクは高まります。番組を観ていると、送電網システムの障害やダウンによる大規模停電のリスクは従来型のモデルよりは高まるのではないかと懸念されます。(もっとも停電を起こさないための管理システムなのでこれは鼬ごっこと言うべきなのですが、送電の管理コストは確実に上昇するでしょう)

第1回の内容も合わせた感想として、欧米ですでに「脱炭素」が利益を生み出す取り組みとして進められている以上この流れはやはり止まらない、と言う点に変わりはありません。正直アメリカがパリ協定から脱退しても、アメリカの企業は「脱炭素」に取り組まざるを得ないというのが今日の現実なのでしょう。一方でますますシステムが複雑化していくことへの懸念も感じざるを得ない。それが第2回までを見た感想ですね。

 

NHKドキュメンタリー「シリーズ“脱炭素革命”(1)「激変する金融ビジネス “石炭”からの投資撤退」」:舵は切られている

2/26放送の「シリーズ“脱炭素革命”(1)「激変する金融ビジネス “石炭”からの投資撤退」」を視聴しました。

 

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このテーマを特に熱心にトレースしていた訳では無いですが、それでも世界の潮流と自分の意識とのずれを感じざるを得ない内容でした。

所謂「脱炭素社会」への潮流を追うシリーズの1回目なのですが、今回は主に投資の面からの取り組みについての取材内容となります。

その前段として取り上げられるのが「ダイベストメント運動」です。「ダイベストメント」とはもともと投資しているポートフォリオから、倫理、道徳面で不適切であり、投資面でのリスクとなりうる企業を除外することを指していました。知られたところでは環境汚染や児童労働に対する改善への取り組みが不十分としてユニクロやナイキ、任天堂などもやり玉に挙がったことがあります。

この「ダイベストメント」が、対象となるテーマが「脱炭素(または脱化石燃料)」に絞られた形で社会運動化し、エネルギー会社のみならず金融会社や投資機関に対する現実的に大きなプレッシャーとなっていることが紹介されています。

つまり脱炭素をテーマとする「ダイベストメント」が投資家へのプレッシャーとなっているということは、投資家の対象選定の条件に一つに「脱炭素」というテーマがすでに加わっているということになります。これは現実のビジネスではかなり大きな影響を受ける話で、例えばここ20年で「コーポレートガバナンス」や「コンプライアンス」と言ったテーマが投資家の選定条件に加わることで、この両語が株主に公開される資料に記載がない会社は無い(=取り組みのない企業は投資に値しないと判断されるため)という状態になったことを考えると、そこに「脱炭素」が加わることは間違いないと思います。

懸念のしすぎでしょうか?しかしながら、すでに世界的な投資機関や金融機関の多くが「脱炭素」をテーマとしたダイベストメントに着手しており、そのことは番組の中でも取り上げられていますが、他のソースでも確認できます。

ダイベストメント | Sustainable Japan | 世界のサステナビリティ・ESG投資・CSR

また、日本の株式市場における外国人の持ち株割合を考えると、ダイベストメントの影響は早々に現れてもおかしくない状況でしょう。

外国人持株比率 | ランキング | 会社四季報オンライン

また、パリ協定における「今世紀後半までにCO2排出量を0に近づける」と言う目標から逆算すると、「今後人類が排出できるCO2は1兆トン、現在の排出量で言えば20年分」と言うのもなかなかのインパクトです。

これまで石油をはじめとする化石燃料資源は、その埋蔵量が有限であるところに価値の源泉があると同時に、その有限さ故にエネルギー危機への懸念があったわけですが、その認識はすでに古く、むしろ現在の環境は、その埋蔵量を燃やし尽くすことなど許されない状況にあり、資源の埋蔵量にその価値を依存していた会社の投資価値が急落しているというの話は、昔ながらのローマクラブの石油枯渇説を知るものとしては少なからぬ驚きです。

この「脱炭素」の潮流は、すでにエコロジーを軸とした社会運動の枠を超えて、投資家に現実的なプレッシャーを与え、社会の方向性の転換を実現する大きな潮流となっていることがよくわかる内容でした。そうなると気になるのが日本の取り組みです。「脱炭素」も「ダイベストメント」もさほど関心が高くなく、政治でも報道でも取り上げられることが少ない日本は正直なところこの潮流からは大きく取り残されている気がします。もともと私がこの番組を観る気になったのも、購入している山口正洋さん(ぐっちーさん)のメルマガで、アメリカにおける脱炭素への取り組みが良く取り上げられていたからなのですが、そのメルマガでも言及のあった日本の低CO2石炭火力発電所がこの番組でも取り上げられていました。番組ではやんわりとした指摘でしたが、この件海外からはCOP23でかなり批判の的になっていたようなのですね。この脱炭素の潮流の中で「日本の技術ならば低CO2の火力発電が可能!」とゼロ・エミッション前提の会議で意気揚々と発表するということをしでかして、日本企業は大きく株を下げたようです。もう「日本の先進的な環境技術」などとはとても言えません。低CO2ではそもそも門前払いなのですが、この潮流に企業や政府だけでなく、社会全体が取り残されている気がします。

日本の場合どうしても議論が「脱炭素」より「脱原発」にフォーカスしてしまうのが残念ですね。つくづく福島原発事故の影響の大きさを感じます。「脱原発」のほうが声が大きく、政治的なイッシューになりやすいからなのでしょうが、テーマとして矮小化されている印象はぬぐえません。もっと視野を広く「脱炭素」の潮流に取り組まないと10年後に大きな差になっていると思われ、多少なりとも日本株へ投資をしている身としては大変気がかりです。すでに脱炭素の取り組みでは中国やインドのほうが先に進んでいる点も多いこともあまり知られていないでしょうね。温暖化への取り組みにおいて「先進国対途上国」の構図がすでに過去のものとなりつつある中で、火力発電への依存が大きく、その技術の海外へのインフラ輸出を促進する日本がむしろ批判の矛先となりかねないことはもう少し知られても良い気がします。

「脱炭素」の潮流は、良い悪い、正しい正しくないとは関係なく、すでに動き出しており、イデオロギーも超越した現実の動きです。好き嫌いはともかくこの流れにはもっと注目が集まってほしいと思います。(そういう意味でもよい番組でしたね)

ノスタルジア:静謐な映像作品

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評価:2.5(5点満点)

総評

1983年公開のイタリア・ソ連合作映画。ロシアの巨匠アンドレイ・タルコフスキーの作品です。

自分にとって映画が娯楽であるのならば、本作は映画と言うより映像作品として評価すべきであると感じました。物語としても娯楽要素はほぼ皆無に等しく、分かりやすい粗筋やメッセージが読み取れるわけではありません。主人公の名前や、背景として語られる音楽家についてなど、本作の撮影後にタルコフスキーソビエトから亡命したことを重ね合わせると、自伝的、と言うより一種の私小説的な作品なのかなと思える内容でした。

本作の素晴らしさはとにかくその映像の美しさにあると言えるでしょう。タルコフスキーの作品は本作以外では『惑星ソラリス』『ストーカー』を観た程度ですが、本作も含めてタルコフスキーの作品は映像の美しさが圧倒的で、ストーリーはどうしても二の次になるのですね。基本的に映画というジャンルには娯楽を求めるタイプの人間であるため、評価の軸も娯楽作品としての出来を中心に見てしまうので、本作の評価もそれほど高くつけることは出来ませんでした。

だからと言って本作がつまらない作品かと言うとそうではありません。前述したようにその映像のすばらしさだけでも一見の価値があります。冒頭の朝もやに煙る牧草地の風景や、ドメニコが居住するなかば水没した廃墟の情景など、まさに息をのむほどの美しさです。現実にこれらの風景を見て、同じような感想を抱くことが出来るか自信がなくなるほどで、正に映像作家としての面目躍如と言えるでしょう。

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また、本作は全編を通じてBGMがありません。ごく一部にベートーベンの第9などが流れる場面がありますが、それも映画中で実際に流れている設定となっており、所謂BGMとしての演出は皆無と言っても良いと思います。BGMの代わりに流れるのは、言うなれば生活音、大理石の廊下に響く足音、廃墟に反響する雨だれ音など、自然ではありながら作家が場面に合わせて抽出した効果音のみです。登場人物も少なく、寂れた観光地を舞台にした本作はその映像の美しさも併せて非常に静謐な空気に満ちた作品です。

本作はエンターテイメントとして楽しめる作品ではありません。しかしながら映画を見る楽しさは必ずしも娯楽だけではありません。折に触れて本作のようなタイプの作品を視聴するのもまた良いものです。

 

『S.T.A.L.K.E.R. SHADOW OF CHERNOBYL』本格FPS初体験

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S.T.A.L.K.E.R. SHADOW OF CHERNOBYL』をクリアしました。

これまで最もゲームに熱中していた時代(だいたい25年前)には、FPSというジャンル自体が日本では盛んではありませんでした。その後海外でFPSがゲームの主流となり、日本でも多くのゲームが紹介、販売されるようになりましたが、そのころにはゲーム自体をやらなくなったこともあり、これまでFPSについては全く体験したことがありませんでした。

昨年から空いた時間でまたゲームをやり始め、せっかくなのでこれまでプレイしたことのないジャンルに挑戦しようと思い、FPSとしては『Fallout4』や『Baioshock』シリーズをクリアしました。

しかしながらこれらの作品、前者はRPG、後者はホラーゲームであり、FPSとしてはカジュアルな内容なのでもっと本格的なFPS作品をプレイしたくなりました。

いきなり『Battle Field』や『Call of Duty』のようなオンライン対戦が盛んな作品に挑戦するのは敷居が高そうなので、シングルプレイのFPSを探し本作を昨年のウィンターセールで購入しました。

感想ですが、いや難しい難しい。とにかく死にまくりました。『Fallout4』や『Bioshock』とはFPSとしての次元が違いますね。クリアしたのは最低難易度ですが、それでも最初の戦闘から何度もゲームオーバーを繰り返しました。更にこの作品コントローラーに対応していないので、初の本格FPSで初のキーボード操作でのプレイと初めて尽くしのプレイとなり、操作に慣れるまでにも時間がかかりました。

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とはいえ本作はイベントムービーの最中以外はいつでもセーブができますので、細かくセーブを取りながら、Try&Errorの繰り返しでゲームを進めて、最低難易度ながら何とかクリアすることが出来ました。

シナリオは正直なところプレイを進めるうえでの添え物程度の内容なので、それほど語るべき内容はありませんが、ゲームそのものは面白かったですね。ハンドガン、ショットガン、アサルトライフル、狙撃銃とFPSでおなじみの武器が一通りそろっており、その種類も旧東側寄りのマニアックな品揃えとなっています。本作は重量制限があるので、プレイを進めるごとに銃と弾薬の種類を選択していくことになりますが、それに悩むのもまた楽しいです。何より本作は敵AIの性能が優秀なことで知られたゲームなので、その敵を相手に次々とヘッドショットを決められるようになるとかなり興奮しますね。

2007年発売と10年近く前のゲームですが、ちょうど私のブランク期間にあたるゲームなので特に古臭さを感じることもなくプレイできました。ただ雰囲気が重く、登場人物がむさくるしく(モブキャラ含めておっさんしか出てきません)、突然現れる敵に何度もビビらされるゲームなのでしばらくはもういいかな。続編が2作あるようですがさすがにそこまで続きが気になるというほどのシナリオでもありませんでしたし。

Steamでは公式には日本語化はされていませんが、日本語対応MODがあり、特に問題なく動作しました。また他のジャンルのプレイ後に別のFPSを探してみたいと思います。

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ハイ・ライズ:遅すぎた映像化

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評価:2点(5点満点)

総評:

2015年に公開されたイギリス映画。SF作家J・G・バラードの後期3部作の1作を映像化した作品です。原作は既読。

一言で言うならば映像化するのが20年遅かった映画と言ったところでしょうか?バラードが本作の原作(本作では”原案”扱いですが)を出版したのが1975年。欧米で高層建築の普及が進み、日本でもようやく20~30階クラスの住宅が建てられ始めた当時を考えると、高層住宅を舞台に、居住階で区切られたヒエラルキーに端を発する秩序の崩壊と闘争、混沌を描いた本作は大きなインパクトがあったはずです。『ハイ・ライズ』を含むバラードの後期3部作(他の2作『クラッシュ』『コンクリートの島』)は初期3部作と異なりその内容にSF的な要素がほとんど見受けられないにも関わらず、これらの作品がSFとして高い評価を得ているのは、現在に比べてテクノロジーへのナイーブな信頼が成立していた当時、高層建築や高速道路などの工業的象徴となる舞台で極限状況にある人々を描いた彼の小説の先進性が高く評価されているからであると思います。

この映画化がせめて90年代までに実現していたのであれば、徐々にテクノロジーへの信頼が失われていく時代性や、俗な話ですが日本におけるタワーマンションの普及などとも絡めて、時代性、啓発性のある作品として一定の評価を得ることが出来たかもしれません。(バラードはそんな意図で原作を書いたとは全く思いませんが)

ですが20世紀もすでに10年以上経過している現在の視点で見ると、本作は時代性と言う点で機を失っている気がします。制作した当時ですでに時代性を失っているというのは映画にとってかなり致命的な欠点であると思います。

本作は映画化にあたり、登場人物の造形が原作からかなり改編されています。特に主要人物であるロイヤルとワイルダーの性格がずいぶんと俗化されてしまっており、そのため、ストーリーもなんだかありがちなタワーマンション内のマウンティングを暴力的かつ極端にカリカチュアライズした印象を受けました。タワマンにおける階層構造などと言う話はすでにネットや週刊誌のネタ話として消費される程度の扱いでしかない現在、このような改編は逆効果でしょう。せっかくストーリーはほぼ原作を踏襲しているというのに、なぜキャラクターの造形を変えてしまったのか理解に苦しみます。これではキャラクターの行動こそ原作と同じでも、動機や目的が全く変わってしまい、ストーリーを変えない意味がなくなってしまいます。おそらくは原作通りの人物造形では観客に物語が伝わりにくいなどの考慮があったのだと思いますが、原作を読んだ身としては厳しい評価とならざるを得ません。

私はバラードの作品は後期3部作も含めて愛好しているのですが、それでもおよそ大衆的とは言い難い氏の作品を、2015年のタイミングで映画化するという企画が良く通ったなあ、とその点では感心します。

しかし上に添付した公開当時のポスターですが、「さよなら理想郷」とか「完全映画化」とか、このポスターを制作したスタッフは原作どころか本作すら見ていないのではないでしょうか?宣伝文句とはいえちょっとこれはないですね。