アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち:歴史的裁判の側面を描く(”側面から”ではない)

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評価:3(5点満点中)

総評

2015年制作のイギリス映画。ケーブルテレビで視聴。

1961年にイスラエルで行われた、所謂アイヒマン裁判をTV中継した人々を描いた作品です。

アイヒマン事件そのものではなく、この歴史的裁判のTV中継に挑んだ製作者たちの姿を描くという視点はなかなか面白いですね。どこまでが事実に基づいているのかは分かりませんが、政府当局は撮影を許可しているのに、それとは別にTV局が個別に判事からの許可を得ることが必要(しかも当局はその交渉に一切関与しません、との立場)という話などいかにもありそうです。

映画の内容は、主人公であるプロデューサーのミルトンと、監督のレオの2人がこの裁判をいかに中継したか、という点がプロットの主ではあるため、裁判もしくは被告であるアイヒマンそのものに大きくスポットが当たるわけではなく、歴史的な出来事のあくまで脇役を描いたドラマなのですね。(「脇役から見たアイヒマン裁判」ではなくアイヒマン裁判における脇役を主役としたドラマと言っていいでしょう)

それでも本作の中で裁判の意義やアイヒマンという人物への追及がきちんと語られることで、結果としてドラマに厚みを与えることに成功していると思います。前者は作中で何度も語られるように、「(ホロコーストの)サバイバーは蔑視されれていた」「誰も話を信じなかった」「この裁判で初めて証言し、それを聞いてもらえた」などの言葉を主人公の周辺に語らせることで、後者は主人公レオの想いとして描かれていますが、この振り分けも効果的で、結果として話の焦点が分散せず、起承転結のない難しい脚本をうまく見せることに成功していると思います。

主人公のレオは「人間ならば誰でもファシストになる可能性がある」「アイヒマンは怪物ではない。ただの人間だ」と考えていることが劇中では示されており、それが今作中における彼の政策スタンスとなっています。実在のレオ本人がそのように考えていたのかは知らないのですが、このレオの持つこの考えはむしろアイヒマン裁判を通じて明らかになった点であり、映画におけるキャラ付けとしては悪くないですが、裁判前からレオがこのような視点を持っていることは少し違和感があるのも事実です。また、本作ではレオの問題意識に対する回答を明確には示さずに、比較的あっさりと終わらせてしまうため、アイヒマン事件そのものに関心のある人にとっては不満が残る作品かもしれません。(その点も含めて「歴史の脇役が主役のドラマ」なのです)

本作におけるレオの視点はアイヒマン事件を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントのそれを参考にしていると思われますが、アーレントの場合作中のレオの疑問(「なぜ平然としていられるんだ?」)に対する答えを持っていますので、本作と合わせて映画『ハンナ・アーレント』を観るか、もしくは彼女の著作である『イエルサレムアイヒマン』を読むなりすると面白いかもしれません。

また、本筋からは離れますが、本作では主役二人のバディ(相棒)感が良いですね。かたや歴史的裁判の中継を企画した野心あるプロデューサーとして、かたや裁判を「作品」としてアイヒマンという男の本質に迫ろうとする芸術肌の監督として、互いにたびたび衝突しながらも、同時に互いを気遣い、プロとして尊重する姿が描かれています。主演の2人も地味ながら良い配役だと思います。

ちなみに本作のタイトル『アイヒマン・ショー』については、当初なんだかジム・キャリーの『トゥルーマン・ショー』を思わせ、なんか気に入らないな、『アイヒマン・トライアル』でいいじゃないかと思っていたのですが、内容を見るとこのタイトルで正解でしたね。(原題も『The Eichmann Show』ですね)