ロボットと市民権と『バイセンテニアル・マン』

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少し古いニュースですが、サウジアラビアでロボットが市民権を取得したそうです。このニュースを聞いて、古いSF読者ならばアイザックアシモフの名作『バイセンテニアル・マン』を思い起こす方もいるのではないでしょうか?

アイザック・アシモフは私が最も好きなSF作家ですが、その彼の作品の中で一つだけ選ぶとしたら、迷いなくこの『バイセンテニアル・マン』を選びます。この作品は、偶然の産物として自我を持つロボットとして生み出されたアンドリューが、ロボットから一人の人間となる過程を描いた物語です。アンドリューは人間になるため、機械の体を徐々に生体組織ベースの体へ移行してゆくのですが、体の組成や見た目がどれだけ人間に近づこうとも、ロボットとして生まれたアンドリューを社会は人間とはみなしません。そこでアンドリューは法廷闘争や政治家への働きかけなど、社会的に自らを人間と認めさせる戦いに挑みますが、ロボットへの偏見が強い(アシモフの描くロボット社会は根強いフランケンシュタイン・コンプレックスの存在が特徴です)社会はその願いを拒否し続けます。万策尽きたアンドリューはついに最後の手段を選ぶことになる...というの粗筋ですが、興味を持たれたらぜひお読みいただきたい作品です。ちなみに以前本作を映画化した『アンドリューNDR114』を「駄作」と書きましたが、その理由は多々あるのですが、最大のものはこの『バイセンテニアル・マン』と言うタイトルの意味が分かるラストシーンを映画では台無しにしてしまっていることなのですね。私はSF史上でも屈指の名シーンだと思っているのですが...

『バイセンテニアル・マン』でロボットが人間となるための最後の関門が、人間社会から「人間」と認められることだったのですが、現実社会でははやくもそのハードルを越える国が出てきました。むろんこれは国家経済の転換を図るサウジアラビアの広報の一環であり、象徴的な意味すら持たないとは思いますが、長い目で見ると一つのエポックメイキングな出来事になるかもしれません。一つの「事例」が存在することはその後の法律では大きな意味を持つことですから。

ロボット技術、AI、義肢によるサイボーグ技術は今後急速に発展することでしょうが、その先に待つのは「人間」という定義の揺らぎです。生まれ持った肉体をどこまで維持することが人間としての境界となるのか?AIを組み込まれたロボットは法律的にどのように定義されるのか?SFでしかありえなかった問いが早晩現実に持ち込まれることになるでしょう。それが10年後なのか、100年後なのかと言うスピードだけが予測できない。そんな気がします。AIでもロボットでも生きているうちに最初のアンドリューに出会えることになれば興味深いですね。