『マッドマックス』シリーズ:ヴィラン、カーチェイス、そしてV8!

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『マッドマックス』シリーズ。MoviePlusで全4作品を連続放映していたので週末一気に視聴しました。シリーズ1~3はこれまでに何度も観ていましたが、最新作の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は初視聴です。

感想としてはとにかく『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が大変素晴らしいです。シリーズの4作目、しかも前作から27年ぶりで、監督のジョージ・ミラーが当時御年70を超えていたことを考えるともう驚異的としか言いようがない仕上がりですね。

各作品の評価(5点満点)としては

マッドマックス:3

マッドマックス2:3.5

マッドマックス サンダードーム:2.5

マッドマックス 怒りのデス・ロード:4

と言うところです。

『マッドマックス』の主人公であるマックスは基本的に「巻き込まれ型」のヒーローなんですよね。マックスは基本的に荒野の流れ者です。生きる目的や戦う理由があり、自ら他人を巻き込んでいくタイプの主人公ではありません(「妻子を殺害した暴走族への復讐」という明確な目的のある1作目は例外)。基本的にトラブルに巻き込まれるか、個人的な事情(ガソリンを補給するため)で首を突っ込み、手助けをするのが2作目以降のパターンです。そのため、映画の主役はタイトル通りマックスですが、物語上の主役は必ずしもマックスではないという構造になっています。このことは各作品の粗筋を一言で説明すると分かりやすいです。

マッドマックス:妻子を殺された警官(=マックス)が暴走族に復讐する物語

マッドマックス2:製油所に立て籠もる人々がギャングから逃亡し新天地を目指す物語

マッドマックス サンダードーム:核戦争後に残された子供たちが故郷を目指す物語

マッドマックス 怒りのデス・ロード:逃亡した女性たちが「緑の地」を目指す物語

つまり2作目以降のマッドマックスは基本的に「逃亡の物語」であり、その主役は映画における主役であるマックスではなく、マックスはあくまでその手助けをする役割であることが2作目以降一貫した流れになっています。

このような「巻き込まれ型」の物語の場合、最初は物語上の脇役でしかなかった主人公が、ドラマの中で挫折や葛藤を乗り越え成長し、周囲の共感を得て物語上の主役となる(=映画の主役と物語の主役が軌を一にするまでをクライマックスに向けたドラマとする)脚本とすることが多いと思うのです。ドラマとして盛り上げやすく、観客の共感も得やすいですし。

しかし「マッドマックス」シリーズはそうではないんですよね。マックスは基本的に最後まで手助けをするだけです。それもどちらかと言えば仕方なしに。おまけにマックス自身も個性的とは言い難いキャラクターですし、前述したように分かりやすいヒーローではないので、本シリーズは主人公の魅力で人気を得ている作品とは言い難いのですよね。

では何が本シリーズの人気を支えているのか?言い換えればファンは何を本作に求めているのか?私の感想としては「ヴィラン(およびその周辺の世界観)の個性ある造形」と「迫力あるカー・チェイス」なのかなと思っています。その方向性を示したのは2作目である「マッドマックス2」だと思います。ヒューマンガス様、人気ですよね。ムキムキの肉体にホッケーマスク、序盤の名演説。今やネット上のアイコンの一人です。

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また、「マッドマックス2」の終盤の、世紀末仕様のカスタム車によるカー・チェイスも他の映画にはないこの映画の個性であり魅力の一つでしょう。

「マッドマックス サンダードーム」が知名度のわりにコアなファンの評価が前作に及ばないのはこの2点が弱いからだと思うのですね。「サンダードーム」のヴィランティナ・ターナー演じるアウンティですが、前作のヒューマンガスに比べるとビジュアル面でのインパクトもキャラクターのクセも弱いです(あくまで相対的に、です。ヒューマンガス様が強すぎるんです)。映画終盤もカー・チェイスならぬトレイン・チェイスで時間的にも短いですし、なによりも追われるマックス側で誰も死なないんですよね。前作では主要なキャラをバンバン殺していたのに。

「サンダードーム」はハリウッドの影響力が強いとされている作品ですが、なるほどハリウッド流に薄められてしまったな、という感想が強いです。いかにも80年代のアクション映画的で、ヴィランとカー・チェイスと言った本シリーズの個性が抑えられてしまっていると思います。個人的には嫌いな作品ではないんですけどね。特にティナ・ターナーがいいんですよ。昔見た吹替版の最後で「私の負けだ。男だねぇ」と言い捨てて去っていくところなんか。でも「マッドマックス」シリーズとしては個性が劣る点は否めないところです。

そして「マッドマックス 怒りのデス・ロード」ですが、これは「マッドマックス2」で確立した方向性を徹底的に際立たせた、正に「皆が待ち望んでいたマッドマックス」と言える作品でしょう。

「2」におけるヒューマンガスに相当するヴィランとして本作ではイモータン・ジョーが登場します。

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より世紀末感の増したその造形もさることながら、そのカリスマ的なキャラ付けに加え、それを引き立てる周辺装置もまたアクが強いことこの上ないです。ジョーの為に死すことを無上の喜びとする「ウォー・ボーイズ」、スピーカー満載のトラックでツインネックギターをかき鳴らす「ドーフ・ウォリアー」などビジュアル的なインパクトが抜群です。ポスト・アポカリプスの作品がさんざん作られてきた現代で、斬新ではないもののこれだけのインパクトがあるイメージを作り出すジョージ・ミラーの映像作家としての手腕はさすがです。

カー・チェイスについては言わずもがな。2時間を超える本作の8割以上がカー・チェイスと言う徹底ぶり。規模も迫力も長さも倍どころの騒ぎではありません。本作がファンから絶賛されているのは知っていましたが、ここまで振り切った作品ならば当然でしょう。むしろ本シリーズのファン以外に需要があるのか不安になるレベルです。

でも本作は一般的な評価も高いんですよね。受賞は逃したもののアカデミー賞でも作品賞、監督賞にノミネートされていますし。これだけ「濃い」映画が何故一般的な評価も得ることができたのか?それはやはり本作の物語上の主人公であるフュリオサの存在が大きいでしょう。カッコいいですよね、フュリオサ。タフでクールなリーダーであり、皆を導く優秀な戦士。作品上の主人公であるマックスよりも分かりやすい主人公であると言えますが、本作が前の2作と大きく異なる点がこの点です。本シリーズではマックスは必ずしも物語上の主人公ではないと言いましたが、一方で前2作では分かりやすい物語上の主人公はいないのですね。前2作の物語上の主人公は「別天地を目指す人々」であり、特定のキャラクターではありませんでした。そのため観客が共感、投影するキャラクターが不在でしたが、本作ではフュリオサという明確な主人公が物語に存在します。フュリオサという物語上の主人公を設定し、魅力的に描くことに成功したことが、マニアのみならず一般の映画ファンにも広く受け入れられた大きな要因であると考えられます。

しかし本作もやはり「マッドマックス」。何よりラストが良いです。凡庸な作品ならば、脚本にマックスとフュリオサのロマンスの種でも撒いておき、ラストは2人の群衆に囲まれたキスシーンで終わってもおかしくないのですが、そこはやはり「マッドマックス」。マックスはやはり最後には物語の主人公たちを置いて去っていくのです。去っていかねばならないのです。これまでと同じように。さすがジョージ・ミラー、よく分かっています。

とにかく齢70を超えて、最新作にしてマニアもそうでない映画ファンも唸らせる最高傑作を送り出すのですから脱帽と言うしかありません。いろいろと説明はつけられますがとにかく作り手の熱情がすごい映画です。堪能しました。