最後の晩餐~平和主義者の連続殺人:映画は凡庸、背景は複雑

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評価:1点(5点満点中)

総評:

1995年のアメリカ映画。共同生活を営むリベラルな5人の大学院生が、ある事件をきっかけに保守的な傾向を持つ人物を家に招いては殺害を繰り返す、、、という内容で、一応ブラックコメディという色分けとなっていますがコメディ要素は少なく、連続殺人に至るまでの経緯や、殺人の葛藤などもろくに書かれていないためドラマとしても深みがあるわけでは無く、どっちつかずの作品である印象です。脚本重視と言うよりは「リベラルな人物が保守的な人物を対象に連続殺人を行う」という発想重視で制作された印象を受けます。実際私もCATVで見るまで本作の存在自体知らず、番組表で概要を見て興味を持って視聴した程度です。

俳優陣はなかなか豪華なのですが、起用方法には疑問が残ります。当時すでにスターの仲間入りをしていたキャメロン・ディアスは5人の主人公の一人として埋もれてしまい、全く魅力が感じられません。なんでこんな映画に出る気になったのでしょうか?もったいないことです。同年に『アポロ13』に出演して高評価を得ていたビル・パクストンはある意味重要な役どころで出演していますが、あえて彼を起用する理由が理解しがたい役どころでした。

本作はいわば社会派ブラック・コメディというべき内容で、アメリカにおける保守とリベラルの対立がテーマとなっています。リベラルを代表する主人公5人と、その犠牲者となる10人の保守的な人物はそれぞれリベラル、保守のステレオタイプとして描かれているので、その点を理解していないとなぜ5人がこれらの人物を殺害しているのかすら分からないでしょう。その意味では日本などアメリカ以外の国では楽しむための前提となるハードルが高い内容と言えます。本国のアメリカですら、意識的に保守・リベラルの対立構造とそのステレオタイプを認識し、それをブラック・ユーモアとして楽しめる層がマスとして存在しているとは考えにくく、マーケティング的にいかなる層を対象とした作品なのか理解に苦しみます。厳しい言い方をすれば皮肉屋気取りのインテリが同類向けに制作した自己満足的な作品です。リベラルと保守の対立というテーマ自体はアメリカ映画(特にコメディ)には欠かせない要素なのですが、テーマそのものが前に出過ぎてしまい、コメディに全く昇華できていません。

製作者の意図としては、保守、リベラルのいずれかに肩入れするのではなく、その対立構造をステレオタイプなキャラクターを通じて揶揄するというところにあるとは思うのですが、肝心の脚本が起承転結もひねりもなく、保守派のステレオタイプが登場しては消えていくという繰り返しなので退屈な作品となってしまいました。

本作で評価できるのはロン・パールマン演じる政治コメンテーター(らしき人物)のノーマンでしょう(タイプは異なりますがラッシュ・リンボーあたりのコメンテーターがモデルでしょうか)。作品の当初から登場し、本作のタイトルも考慮すると最後のターゲットが彼であることはバレバレなのですが、保守的かつ扇動的なコメントでメディアを賑わす彼が、実際には極めて実利的で計算高く、保守ともリベラルとも距離をとるバランス的な人物であることが効果的にクライマックスへとつながっていくのですが、長身で体も顔も厳つい性格俳優であるロンが、そのギャップを巧みに演じています。正直なところノーマンを主人公に同じテーマで脚本を書いたほうがよほど良い作品が出来たのではないかと思います。

ちなみに本作のEDは少年ナイフがカバーした『Top fo the world』なのですね。95年と言えばすでにグランジの全盛期だったな、と少し懐かしくなりました。