ピエロがお前をあざ笑う:先達の偉大さよ

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評価:2点(5点満点中)

総評:

※本作および関連作品のネタバレあり

2014年のドイツ映画。本国では大変評価が高く、ハリウッドでのリメイクも決まっているとのこと。全く知らなかった作品だが、ケーブルTVの番組表にある”必見の大どんでん返し!”的な煽り文句を見て視聴したのだが...

はっきり言えば「劣化版ユージュアルサスペクツ」。

なんと言うか、観客を騙したい、驚かせたい、と言う制作側の意図は分かるんだけど、悲しいまでにユージュアルサスペクツ(以下US)なんだよな。具体的に言うと、脚本の構成がそのまんまUS。

 

①映画冒頭にカットインされる事件の情景と示唆される犯罪の破綻

②捜査側と対峙する犯罪の参考人という冒頭

参考人の供述、モノローグという形で事件の経緯が語られるストーリー

 

①~③は作品全体の構造であり、開始10分程度で提示されている。どんでん返し云々と言った映画の煽り文句を見て本作に興味を持ち、更にUSを観たことのある人なら、もうこの時点でこの映画が推理小説で言うところの「信頼できない語り手」*1を扱うものだと気づいてしまう。なぜなら①~③はまんまUSの冒頭、捜査官とキントの構図そのままだから。「ああ、こいつ(ベンヤミン)の言うことは最後にひっくり返るんだな」と分かってしまうので、その後の内容も「さてさてどこを伏線に使うつもりなのかな」といった視点で見がちになってしまう。

むしろそう思わせた挙句に、全く別の展開を見せれば驚きもあるのだが、その後の展開は、

④捜査側人物の指摘・追及による参考人供述の大転換(どんでん返し①)

   US→「実はキートンこそがソゼだったんだあっっっ!」

   本作→「実はお前は多重人格で、仲間なんて存在しないんだあっっっ!」

参考人の仕掛けた真相の判明(どんでん返し②)

   US→キント「実は俺がソゼだったのさ」

   本作→ベンヤミン「多重人格と思わせることが狙いだったのさ」

というもので、やはり最後までUSなのである。どんだけ好きなんだ。

④、⑤の「どんでん返し」の内容も期待値の割に今一つ。それまでの思わせぶりなシーンが有効に使われず、突然ベンヤミンの母親が実は多重人格とかいう設定が登場するあたり伏線の張り方が拙い。⑤に至っては無理があり過ぎる。捜査官が必要もないのに無理やりベンヤミンが多重人格であると気づきに向かい(そうとしか見えない。それを誘導するような描写がほとんどないのだから)、証人保護PGMが適用できないので同情し、逃がした挙句新しい身分の為に本部のサーバへのアクセスも許す、という展開はいくら何でもご都合主義に尽きる。仮にもコンピュータ犯罪の(元)責任者である人物が、小物とはいえハッカーに本部サーバへのアクセスを許すなど現実味がないにもほどがある。「ソーシャルエンジニアリング」の一言で片づけられるもんじゃないでしょ。どれだけ万能なんだ「ソーシャルエンジニアリング」。

要は⑤のどんでん返しの根底にある主人公一味の計画は、捜査官のリンドベルグがとんでもない無能であることを前提にしか成り立たない杜撰さなのである。

一応フォローしておくと、主人公達はリンドベルグの無能さ(?)に闇雲に掛けてるのではなく、過去、経歴をハッキングしたうえで「ソーシャルエンジニアリング」を仕掛けている、と言う体にはなっている。その点はきちんと冒頭でも終盤でも描写されている。その点は認める。でも無理があり過ぎることには変わりない。

この映画の悲しい点は、「終盤にどんでん返しがある作品」であることが宣伝文句になっている点なんだよな。それが無ければ(そしてUSを観たことが無ければ)上記のような面倒なことを考えずにどんでん返しを楽しめただろう(でも終盤の展開はやっぱり無理があるよね)。一方で日本ではマイナーな本作は、そんな宣伝文句でも打たなければ見てもらえないだろう。実際自分がそうだった。

結局見てもらえないか、観られた挙句USの劣化品扱いされる運命の悲しい作品。

でもタイトルは原題も邦題も良い。どちらもダブル・トリプルミーニングになっていて、映画を見た後になるほど、と思わせるタイトルだ。この点は評価できる(邦題のセンスは良いとは言えないが)。

偉大過ぎる先達の背中を追いつつ、追いつくことすらかなわなかった作品。でもUSをたことのない人なら楽しめますよ。まあそんな人はこのブログを読むこともないでしょうが。