ナイトクローラー:映画の焦点。テーマとドラマとキャラクター

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評価:3.5(5点満点中)

総評:

2014年公開のアメリカ映画。ルー・ブルームは、金属泥棒で糊口をしのぐ学歴も仕事も持たない男。ふとしたきっかけでフリーのニュースカメラマンの世界に足を踏み入れ、手段を択ばずニュースを追い求めてゆく...

正に「Nightcrawler」。夜を這いずり、街を這いずり、現場を這いずる。感情のない笑顔で追従する、爬虫類のような表情の男。正しくトリプル・ミーニングな「Nightcrawler」ルー・ブルームを、ジェイク・ギレンホールが不気味に演じている。

このようにマスコミ、報道の最前線であり、汚れ仕事的な意味での最底辺、いわば業界の裏側をテーマとする作品は、映画に限らず洋の東西を問わずありふれたものであり、やもするとそのテーマ故に凡庸な作品として埋もれがちとなりうる。

本作を他の類似作から際立たせているもの。それは映画への焦点の当て方だ。本作は所謂マスコミの裏を暴き、報道の在り方を問う、といったテーマが主題の作品ではない。フリーカメラマンという主人公の設定はいわば舞台装置にすぎない。本作がフォーカスしているのはあくまで主人公ルー・ブルームの生態だ(生き様と言うには抵抗がある)。

本作において、ルー・ブルームという男は典型的なサイコパスとして描かれている。

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強引な取材、ライバルの蹴落とし、人を騙し、操る。相手の弱みに付け込み自らの利益のためには他を顧みない。その反社会的なパーソナリティが、建前としての社会正義を追及する報道の世界で身を立てることに資することとなる。ルーを通じていわば”TVニュース”の本質をあぶりだしながら、その矛盾を問うことなく映画はただ彼がひたすら事件を追い、自らの利益にまい進する姿を追う。本作はマスコミやニュース番組の欺瞞性を説く映画ではない。あくまでそれらは舞台装置だ。本作の実態は、その舞台装置にサイコパスなキャラクターを置いたピカレスク映画なのである。

テーマではなくキャラクターに焦点をあてた映画であるが故に、最も重要なのはキャスティングとその演技力だが、ジェイク・ギレンホールは見事にその期待に応えたと言える。映画の中でルーが感情をあらわにするのは1回のみ。あとはその感情のない姿を不気味に演じている。「感情のない」とは言うが、作中彼は何度も笑顔を見せる。しかし本当に感情が感じられない笑顔なのだ。タイトルの通り笑っていても爬虫類的で、笑顔のマスクでもかぶっているような表情。目は決して笑っていない。よくもまあこんな表情を作れるものだ。ジェイク・ギレンホールは『ドニー・ダーコ』でもそうだったが、精神的に問題を抱えているキャラクターを演じると実にいい仕事をする。

本作のようなテーマでドラマに重きを置く場合、むしろ凡庸な人物を主人公にして、悩みや挫折を通じて答えを見つける、いわばピルドュクス・ロマンになりがちである。この場合、主人公の成長物語を通じて、その不可欠な要素である挫折や悩みにテーマを絡めることでテーマとドラマの双方を追及することが出来るためだ。

しかし本作はテーマの追及を捨て、キャラクターとドラマに焦点を絞っている。ルーは決して成長しない。自らの利益のためにひたすら利己的に行動するだけだ。そこに「利己的」という感情や目的があるのかも分からない。ただ何も考えずにそう振舞っているのかもしれないとすら感じられる。思うに彼は「ニュース」そのものに特段の関心は持っていない。関心があるのはその商業的な価値だけだ。自分にとってどれだけ得になるのか、それだけを考えている。だから自らの在り方、報道の在り方、ニュースの在り方に関心を持たない。関心を持たないから疑問を感じない。テーマの追及にあたりこれほど向かない主人公もいないだろう。だからこそ本作はニュースをテーマとした映画ではなく、サイコパス的なキャラクターを描く映画なのだ。仮にルーが自らの行動に疑問を感じ、業界の欺瞞に苦しみ...などと言うドラマを展開すれば、本作はひどくちぐはぐで且つ退屈な作品となっていただろう。脚本家は正しくその点を理解している。映画に限らず漫画でも小説でも、焦点を誤らない作品というものは一定の質が保証されているものだ。そこに上質な演技が加えられれば良作としての評価は妥当だ。本作は少なくともその水準に達している。