アウトレイジ:作家の性(さが)と芸人の性(さが)

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評価:2(5点満点中)

総評:※ネタバレあり

北野武監督による2010年の作品。続編の『アウトレイジ・ビヨンド』も観ているので、2作合わせての評価。

北野武という映画作家による作品であることを抜きにして、純粋に一本の作品として評価すると、まあ所謂”ヤクザ映画”のカテゴリから大きくはみ出すことのない作品と言える。ヤクザ映画には作家としての深作欣二、キャラクターとしての高倉健と言ったアイコンが存在しているが、残念ながらその領域には及ばない作品と言わざるを得ないだろう。普通に鑑賞に堪える作品ではあるが、”監督”北野武のブランドが、どうしてもハードルとなる。”あの”北野武が作る映画がただのヤクザ映画であるはずがない。そんな思い込みがあると、大いに肩透かしを食らうだろう。ある意味それほどオーソドックスな”ヤクザ映画”と一見して感じた。しかし違和感もぬぐえない。”あの”北野武がなぜこれほど一見テンプレなヤクザ映画を撮ったのだろう?

何故”北野武”は本作を撮ったのか?

北野武という映画監督は、俗な言い方だが”作家性”の強い監督だ。処女作である『その男、凶暴につき』に始まり、『キッズ・リターン』『HANA-BI』『菊次郎の夏』など、数々の名作を撮り、海外でもその評価が高いのは周知のとおりだ。

ここで言う”作家性”とは何かといえば、単純化すれば「自分が撮りたいものを撮る』と言うことだと考える。売れる/売れないとか、大衆が求めるものよりも、自分の表現欲を優先する姿勢のことだ。その姿勢を維持したうえで、他にない個性と高い品質を備えた作品を撮ることで、「映画作家」は誕生する。北野武と言う監督は、”ビートたけし”の知名度をフルに活用して映画を作成する環境を確保し、作家性の強い作品を輩出し、作家としての地位声望を獲得した人物だ。

その「映画作家北野武が何故ヤクザ映画と言った通俗性、エンタメ性の強い作品を撮ったのだろうか?単に売れる映画を撮ったというのは簡単だ。しかし、そこには”作家・北野武”と”芸人・ビートたけし”の相克があったのではないかと見る。

そもそも「映画作家」と呼ばれる監督の作品は、その作家性の強さと反比例して通俗性は薄いものだ。エンタメ的な視点で言えば面白くない。作家性と通俗性を兼ね備えた映画作家は稀である。要するに「売れる映画作家」は少ないのだ。

北野武にしてもその例外ではない。いかに海外での評価が高くとも、本作を撮るまでの北野作品の興行収入はそれほど高いものではない。ヴェネツィアで金獅子賞を受賞した『HANA-BI』ですら国内の興行収入は10億に至らなかったという。

”作家・北野武”としてはこれでも良いだろう。国内のみならず海外での評価を得て、最高峰ともいえる賞を獲得した。これだけの評価を確立すれば、今後も”映画作家”として作品を撮り続けることは可能だろう。

しかし”芸人・ビートたけし”がそれを許さなかったのではないだろうか?そもそも”作家・北野武”は”芸人・ビートたけし”の存在抜きにはあり得ない存在だ。そして”芸人・ビートたけし”はTVで、お茶の間で”笑い”の最前線を張ってきた巨人だ。言ってしまえば”作家性”の真逆である”通俗性”の極みだ。ビートたけしの”芸”についてここでは詳しく語る必要はない。肝心なのは、TV、お茶の間、バラエティと言った極めて通俗性の高い世界のビッグネームであることだ。

つまり”芸人・ビートたけし”にとって、”作家・北野武”がどれだけ高い評価や名誉を得ても、売り上げでトップを上げられないことが不満として燻っていたのではないか?それが本作を北野監督が撮影する動機の一つになったのではないかと考える。だから本作は本気で「売上」を狙いにいった作品なのだろう。”ヤクザ映画”というすでに固まったフォーマットに豪華なキャスティング、主演・監督は北野武。万全の体制で挑んだ本作は、超大ヒットとまではいかなくとも、ヒット作と呼べるだけの興行収入を挙げ、続編も2作品作られた。大満足とはいかないまでもある程度目的は達したのだろう。

”作家”の矜持

だが、『アウトレイジ』を観て興味深く思ったのは、それでもやはり”作家・北野武”が己の姿勢を捨てられない部分が垣間見える点だ。本作は基本的に深作欣二に代表される、東映の実録ヤクザ映画の潮流にある作品だと言える。高倉健主演の作品のように善玉と悪玉(ヤクザに善悪もクソもないが)が明確でなく、対立陣営の抗争がひたすら描かれ、最後に笑うのはやはり悪人、と言うやつだ。

勧善懲悪ではない実録ヤクザ映画には、「悪を討つ」というカタルシスを観客に与えることは出来ない。かわりに提供されるのは生身のバイオレンスだ。ヤクザ同士が拳で、銃で、刃物で傷つけ、殺しあう。そのむき出しの暴力こそがカタルシスとなり、観客を惹きつけるのだ。

アウトレイジ』も基本的にこの路線を踏襲している。深作監督とも親交の深かった北野監督であれば当然とも言えるだろう。

しかし、多くのヤクザ映画同様にバイオレンスを売りとしながら、『アウトレイジ』には不思議なほどカタルシスを感じない。

それはそうだ。映画の終盤で主人公・大友(北野武)率いる大友組は負けっぱなしなのだ。組長の大友は他の組織の大物にいいように翻弄され、仲間は次々に凶弾に倒れ、最後は組長も自首することになる。どれほどむき出しに暴力を描いても、負けっぱなしの物語ではカタルシスを得られるべくもない。

映画を盛り上げるならば、勝つにせよ負けるにせよ主人公による乾坤一擲の反撃を描くべきところだ。しかしそうしなかった。続編へのつなぎの為?どうせ主人公を自首させるのならば、負けっぱなしにせずともやりようはあるはずだ。なぜそうしなかったのか?

それはやはり”作家・北野武”の感性が邪魔をしたのではないだろうか。組織にはめられ、仲間を殺されたやくざ者が起死回生の反撃に出る。そんなありきたりの展開を”作家”が許さなかったのではないか。そう思えるのだ。そこに自分は”作家・北野武”の矜持があるように思えてならない。芸人として通俗性の最前線に立ち続ける一方で、作家として自らの表現を極めた北野武が、映画の世界で通俗性の最前線を目指しながら、捨てきることのできないものがあるのだろう。この「カタルシスのないヤクザ映画」という矛盾する作品は、”作家”と”芸人”、それぞれの性(さが)の相克が生んだものだ。

最初に語ったように、『アウトレイジ』は”傑作”というほどの作品ではない。ジャンルもキャストも定番中の定番で枠を踏み出さず、ストーリーは凡庸のレベルにも達していない。

だがそこに「監督・北野武」の名があるだけでこれだけの妄想が出来るのだから、元は取れたというものだ。これはこれで映画鑑賞の醍醐味と言ったところだろう。作品として高く評価することは出来ないが、北野武への評価は少し上がった。そんな作品だった。