ゴーン・ガール:正体の見えない女

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評価:3点(5点満点中)

総評:※ネタバレあり

2014年公開のアメリカ映画。監督はデヴィッド・フィンチャー

5年目の結婚記念日に失踪した妻エイミーを探す夫ニック。失踪現場からはエイミーが犯罪に巻き込まれた可能性が示唆され、警察、マスコミを巻き込んだ大規模な捜索が展開される中、ニックは周囲から徐々に疑惑の目を向けられることになる...

 

さすがは職人デヴィッド・フィンチャーと言うべきか。ありきたりな設定の導入部から始まる物語を、二転三転させ、うまく観客を惹きつける。エイミーの失踪自体がニックを破滅させるために仕掛けた狂言であることは早い段階から読めていたが、その先の展開は正直読めなかった。

物語の中盤。ニックがエイミーに仕掛けられた罠に気づくまでは、本作を「裏切られた妻による復讐譚」だと思っていた。ところがその先の展開で本作が実は”ファム・ファタール”を描いた作品に装いを変えたことを知らされる。本作は前半部だけで物語を完結しても、平凡な設定ながら質の高いサスペンス映画として成立したと思うが、これほどの話題と評価を得ることが出来たのはやはり後半の展開があるからだろう。

ただ不満な点も残る。本作を凡庸な作品から一線を画している後半の展開に無理を感じるのだ。取り留めなく書いていくと結構な量になる。

狂言としての失踪後、エイミーに展望はあったのか?自殺することが示唆されているが、その後の行動がそれを裏切る。後半へのキー・ポイントとして、エイミーがトラブルで金を強奪されるが、本当に自殺する気ならば、そのことで計画を変える必要はないだろうし、後半の展開で明らかになる”ファム・ファタール”エイミーに、そもそも自殺という選択肢はそぐわない。金を失ったエイミーが、昔の恋人であるデジーのもとへ身を寄せた後に、TVで観たニックのインタビューを切っ掛けに、彼のもとへ帰る(そのためにデジーを殺害することも)決断をすることも唐突過ぎる展開で、今一つ動機が分からなかった。そもそもデジーを誘拐犯に仕立て上げて、悲劇のヒロインとして帰還するデイジーの行い自体無理があり過ぎる。失踪現場にデジーの痕跡があるのか?デジーの別荘に来るまでのエイミーの足取りは?そもそも失踪時のデジーのアリバイは?さすがに警察やFBIがそれを見逃すなどという展開は無理がある。

要するに、前半のニックに対する罠の周到さに比較して、後半のエイミーの行動が場当たり的過ぎて、とても同じ人物の行動に思えないのだ。この作品で、エイミーは前半の知的で自立した、行動力のある女性の姿から、後半の男を惑わす悪女に変貌するのだが、今一つその変遷がうまく描き切れていないように感じる。

その原因は、おそらく2時間半近い上映時間があり、エイミーのモノローグにも多くの時間を割きながらも、この女性の内面を映画で描き切れなかったことではないだろうか。本作については映画のみで原作の小説を読んでいないので、その点は何とも言えない。ただ映画の前半と後半で感じるエイミーのキャラクターへの違和感、というかちぐはぐさの原因はそこにあると思う。エイミーはそもそも生来の”ファム・ファタール”だったのか?犯罪の中で悪女へと変遷していったのか?その内面が明確に描かれることはない。

本作がサスペンスとして真に秀逸な点はむしろそこかもしれない。映画を見終えても、エイミーという人物の正体に混乱するのだ。作品の冒頭、エイミーは父親の小説のモデル”アメージング・エイミー”として、完璧な自己とのギャップに苦しんだアダルト・チルドレンであったことが示唆されているが、それは本当に彼女の真実の姿だったのだろうか?その”アメージング・エイミー”すら両親を欺き、自らが両親に仕向けた虚像であったのではないか?このエゴのモンスターを生み出したのは一体誰なのか?最後までその真実は分からない。観客はむしろ混乱して物語の結末を見守り、この女の底知れぬ姿に得も言われぬ思いを抱くことになるだろう。

脚本としての整合性には不満が残るが、所謂”後味の悪い話”とも異なるもやもやした余韻を本作は観客に残すことになる。こういった作品は珍しい。そのことが監督や脚本家(原作者自身)の狙いだったとすれば大したものだろう。