猿の惑星 創世記:ありがちなリブート企画と思いきや...
評価:4点(5点満点中)
総評:
『猿の惑星 創世記』は、言わずと知れた名作SF映画『猿の惑星』シリーズをリブートした2011年公開作品。2001年にもティム・バートンによるリブート作品が公開されている。
バートン版『猿の惑星』の評価の際にも書いたが、『猿の惑星』はそのオチがあまりに知られた作品であるだけに、リメイクにせよリブートにせよ扱いが難しい作品だ。バートン版は果敢にも正面から挑戦したものの、興行的に大コケしたため、明らかに続編を意識した造りであったにも関わらず、1作で終了する運びとなった。
それではバートン版から10年後に制作された本作はいかなるアプローチであの名作に挑んだのだろうか?本作は3部作の1作目であり、現時点で続編である『新世紀』『聖戦記』は未視聴なので、順次視聴後にその時点での評価を書いておきたい。
物語は現在の地球が舞台となっている。製薬会社の研究者であるウィルは、アルツハイマー病に効く薬(ワクチン?)の開発を行っており、その試薬を投与された1頭のチンパンジーが驚異的な知能の高まりを見せる。その知能は生まれた子供にも遺伝されており、その子供を引き取ったウィルはシーザーと名付け、共に生活を始める...という導入だ。
『猿の惑星』シリーズのリブートとして言うならば、例の”オチ”からは逃げた形になる。”猿の惑星”が地球であることは既に明らかであるし、そもそもまだ”猿の惑星”になってすらいない。”これから猿の惑星になる(かもしれない)惑星”だ。本作がこれ1作でコケたならば、完全に看板に偽りありな作品に終わったことだろう。
例の”オチ”から逃げたことは責められない。なにせおそらく初代『猿の惑星』を観たことがない人すら知っている、いわばハリウッドのアイコン的な”オチ”なのだから、正直そこに馬鹿正直に挑戦するほどのメリットは無い(ティム・バートンがそれを証明してしまった)。そのため本作は、『猿の惑星』というアイデアを新たなストーリーに織り上げるアプローチを選択した。この点は批判にあたらないだろう。
しかしその肝心のストーリーは難ありだ。『猿の惑星』全5作を観た映画ファンであれば、どうしても4作目である『猿の惑星 征服』の焼き直しに思えるだろう。そもそも主人公の名前がおなじ”シーザー”だし。
しかも時代が悪い。”アルツハイマー病の試薬を投与され、知能が発達した猿”という存在が、30年前ならまだしも、現在の感覚で言えばちっともSF的に感じられないのだ。センス・オブ・ワンダーも感じられない。フランケンシュタイン・コンプレックスも感じられない。なんというかSFなのに、扱うテクノロジーのレベルが現代的過ぎて、SFに感じられない。これはSF的には致命的だ。テクノロジーの時代性に囚われている、と言うことは、この作品は今後時がたつほどにSFとして陳腐化することが避けられないということになるからだ。この作品単体で見れば、正直SFとして10年後に生き残るのは厳しい作品と言うしかないだろう。
つまり、本作は『猿の惑星』シリーズのリブート1作目としては、アイデアが凡庸であり、SFとしては既に古臭いと評価せざるを得ない。
ならば、本作は見る価値が無いだろうか?
ところが意外にもそうではないのである。リブートとしては凡庸、SFとしては古臭い本作だが、実は王道のピルドュクス・ロマンとして観ると中々に見ごたえがある。
本作の主人公は、科学者のウィルではなく、チンパンジーのシーザーである。ウィルは言ってしまえば物語の導入役にすぎない。本作は、シーザーを主人公とした王道のストーリーがアツいのである。
ウィルのもとで愛情にあふれる環境で育てられたシーザーは、とある事件で隣人を傷つけたことを切っ掛けに、動物保護施設に収容されることになる。そこで所長の息子に虐待をされ、同じ猿の群れからは阻害され、過酷な環境に置かれることになる。
しかしシーザーはその環境に屈することなく、持ち前の知性を武器に果敢に戦いに挑む。檻を抜ける手段を得て、その怪力故に閉じ込められたゴリラを解放、彼の力を借りて猿の群れのリーダーとなる。そして彼は、ウィルの家から自らを生んだ切っ掛けとなった薬を盗み出し、群れの仲間に与える。リーダーとなったシーザーは、仲間を解放するための戦いに挑むことになる...
物語のアウトラインはこんなところだが、これはもはやSFと言うよりは一種の貴種流離譚であり成長物語だ。幸福な環境に在ったシーザーが、一転して過酷に状況に転落し、そこから抜け出すことを通じて成長する、そしてシーザーの成長とともに、猿たちの解放と言う大きな物語が動き出す。はっきり言って本作の主軸となるテーマはここだ。これならばSFと言うジャンルに縛られず、名作シリーズを新たな視点で描くことが出来る。過去に様々な作品で、アンドロイドやロボットを主人公に描かれたテーマ(最近の作品ならゲームの『Detroit: Become Human』なんかが正にそう)を、猿を主役に『猿の惑星』で描くということだ。これはなかなかに良いアプローチだと思う。
そのうえで、制作陣はなかなかに上質な王道物語に仕上げたと思う。いや、ほんとにアツいんだ、この猿たちが。
本作はシーザーの成長物語であると同時に猿族解放の物語だ。シーザーだけではなく、彼を支える仲間の描写がまた王道なのだ。
上のカットは、施設を脱出したシーザー達が、本作における最後の戦いに挑むシーンだが、彼の周りにいる3頭にもきちんとキャラ付けがなされている。
オランウータンのモーリスは、サーカス出身で手話が使える。そのため、施設に収容されたシーザーが、初めて意志を通わせた”最初の仲間”となった。
チンパンジーの”ロケット”は、猿山のボスであり、当初シーザーを打ち据え、拒絶したが、その後シーザーに従うことになった”最初はライバル、最後は仲間”。ゴリラのバックは、狭い檻に閉じ込められ、虐待されていたのをシーザーに救われ、その後彼がリーダーになることを手助けした”守護者”だ。
どれもマンガやアニメに登場する主人公の仲間キャラとして、欠かせない性質やドラマを持つ存在として描かれている。だから上のカットが活きるのだ。シーザーの苦闘と成長を集約したこのカットは観る者の胸を熱くする。それを計算した上のカットだ。間違いなく製作者は本作をシーザーの成長を描く王道の物語として描いており、その試みは成功している。それを象徴するシーンと言えるだろう。
本作は、施設を脱走したシーザー達が、ヨセミテ国立公園らしき場所に流れ着いて幕を閉じる。だが既に続編への伏線がまかれている。シーザー達の知能を飛躍的に高めたウイルスは、人類には致死性を持ち、パンデミックの発生を予兆させている。また、シーザーのライバル、または敵役となるだろう猿側のキャラクターも既に登場している。
本作のシリーズものとして評価は、残り2作を観てから改めて書く予定だが、本作で見せたアプローチは、SFとは別の切り口を開拓することに成功している。これはなかなかに期待できると言えるだろう。そしてそのアプローチ故に、結果として単体の作品としても楽しめる作品となっている。脚本や様々なカットを観ても、それが作り手の意図的なものだと感じられる。ジャンルやアイデアではなく、正にアプローチの勝利だ。名作のリブートとして観ていたら、意外な方向からパンチを食らった気分だ。製作者の思惑にまんまと乗せられたようで、中々に悪くない視聴体験だった。
シーザーの成長と共に、猿族解放の大きな物語の序章として、彼らのエクソダスを描いた本作は、3部作の始まりとしてなかなかの出来だ。とはいえこの手の解放を描く物語は、圧制者(ここでは人類)に対する勝利と新たな王国の始まりで終わるか、その後の王国(または王個人)の破滅で終わるのが常道だ。本作の終着点がどこにあるのか、その点にも注目して続編を観ることにしよう。