『Wolfenstein:The New Order』 ノット・ア・ヒーロー

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『Wolfenstein:The New Order』をクリア。所要時間は19時間ほど。難易度はノーマル。同じ一本道FPSシューターである『Metro』シリーズや『RAGE』よりやや時間がかかったのは、同じ難易度ノーマルでも本作のほうが初見難易度が高かったからだ。中々にやり応えのある作品だった。

舞台はWWⅡでナチスが勝利。アメリカをはじめとした自由主義諸国が占領された架空の歴史。終戦間際の作戦で重傷を負い、十数年の昏睡から目覚めたアメリカ軍諜報員B・J・ブラスコビッチがレジスタンスと共にナチスへ戦いを挑む物語だ。

外連味に溢れた世界観、シビアだが練られたゲーム・デザイン

本作でまず目を引くはその世界観だ。ナチスに占領された1960年。街に溢れる鍵十字。軍事ロボットやレーザー兵器、果ては月面基地など、明らかに60年代にそぐわぬオーバー・テクノロジー。それでいて巨大な演算処理機やCRTが配置されたレトロ・フューチャーな光景。それが寧ろ40~50年代的な風俗に溶け込んでいる。”もしナチスがWWⅡで勝っていたら?”というテーマは歴史改変モノでは定番のテーマの一つだが、そのテンプレートをかなり高い品質で映像化することに成功している。

作品の舞台も刑務所、収容所、軍事基地などFPSのご定番から、先に挙げた月面基地、海底の秘密基地まで多種多様。世界観や舞台装置は荒唐無稽と言っても過言ではない。

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一方でゲーム・デザインはなかなかにシビアだ。本作はFPSとしては実にバランスがとれており、ステルスあり、トリガーハッピーな銃撃戦あり、巨大ボスとの戦闘あり、とプレイヤーを飽きさせない。全体的に楽に進めたいのであれば、ステルス進行がおすすめだが、ひたすら撃ちまくってもクリアは可能。プレイヤーの嗜好に合わせてプレイ・スタイルを選べる戦術的な許容度は大きいと言える。しかし、どのようなスタイルでプレイするにしても、考えなしの場当たり的なプレイでクリアすることは難しい。マップや敵の位置、そして弾薬や回復薬の位置を把握して、適切な立ち回りが必要とされる。何度もゲームオーバーを繰り返したミッションが、立ち回りを変えただけであっさりクリアできた、と言うことも多い。個人的な感触だが、本作ではエイムの正確さよりは、適切な立ち回りが重要だと思う。

プレイ内容についてはおおむね満足でやり応えがある。敢えて言うならばスナイピングの比重が低い点だろうか?本作は基本的のどのステージも空間が限られているので、スナイピング・スタイルのプレイには向かない。スナイプ嗜好のプレイヤーにはあまり訴求するものが無いかもしれない。

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不思議な主人公、B・J・ブラスコビッチ

本作のシナリオについては、ナチスを敵役とする歴史改変ものとしてはありきたりな内容と言える。ブラスコビッチをはじめとするレジスタンスの作戦は局地戦の繰り返しであり、これが戦略的な勝利につながるとは考えにくいもので、その内容は良く言っても小中学生向けのSFレベルだ。基本的にゲームデザインありきで作られたシナリオなのだろう。妥当性のある積み重ねでレジスタンスの勝利を描くような意図はそこには感じられない。

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悪役のキャラクターも分かりやすいことこの上ない。はっきり言えば”完全無欠の下種野郎”だ。昨今なかなか見られないほどに清々しい下種っぷりは寧ろ好感が持てるくらいだ。実はいい人でした、とか過去のトラウマが彼を変えてしまった、とかいうドラマは本作の悪役には一切用意されていない。見事なまでに記号化された悪役と言えるだろう。

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本作のシナリオ面で目を引くのは、主人公であるブラスコビッチのキャラクターだ。

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このブラスコビッチ、外面と内面の乖離が中々に激しい。見た目はガチムチマッチョ、ケツアゴ、マリーン・カットといかにもアメリカ軍人な見た目をしているのだが、中身は実に繊細、と言うか鬱屈しているというか、スカッとしていないのだ。

本作はやたらとブラスコビッチのモノローグが多いことが特徴だが、そのほとんどが巨大な悪に立ち向かう、と言った勇ましい内容ではなく、過去のトラウマを吐露したり、恋人のアーニャを思ったりと、やたらと個人的なのが面白い。ゲーム内ではステルスに銃撃に八面六臂な活躍を見せながら、考えていることはペシミスティックかつセンチメンタル。思うに本作におけるブラスコビッチはプレイヤーの投影ではない。基本的に主人公₌プレイヤーの投影となるゲームでは、プレイヤーに没入感を高めるための手立てを駆使する。名前をなくし、個性をなくし、セリフをなくす。本作の手法はその逆だ。ブラスコビッチという個人を確立することで、プレイヤーとブラスコビッチは別の人格となる。これはヒロイック・ファンタジーでは当たり前の手法だが、寧ろこれらの作品ではヒーローへの憧憬を高める手法だ。例えば『Witcher3:Wildhunt』は、主人公ゲラルトの英雄譚であり、プレイヤーは彼の活躍を見届けるのがその役割だ。ダンディリオンが狂言回しを務めていることからも明らかで、プレイヤーはゲラルトの活躍に胸躍らせることが既に役割として期待されているのである。

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ところが本作の主人公であるブラスコビッチは、記号的なヒーロー像とは一線を画している。行動そのものは紛れもないヒーローなのだが、そのモノローグから伺える内面が邪魔をする。作中でも口数が少なく、表情に乏しい彼の内面を、レジスタンスの仲間や、おそらくは恋人のアーニャすら理解していないかもしれない。多用されるモノローグはその孤独感を引き立てる。また、日本語版の声優である中田譲二さんの演技がまた秀逸だ。どうにも複雑なブラスコビッチのキャラクターを見事に演じている。この憧憬の対象とは外れたキャラクターを、ブラスコビッチはなぜ与えられたのだろうか?

外連味のある世界観や、浅いシナリオ、荒唐無稽な舞台。完全無欠の悪役。いずれも”ガキ向け”とのレッテルを本作に貼るに十分な要素だ。ここに分かりやすいヒーロー像を主人公に据えれば完璧だ。だが本作は、主人公ブラスコビッチのとてもヒーローとは言い難い内面とその演出、そしてシビアなゲームデザインそのものが本作にビターな味わいを加えることに成功している。

外連味のある世界観に小中学生向けと言っても良いテンプレートなシナリオ。一方でシビアなゲームデザインとおよそ低年齢向けとは言い難い主人公。4つの要素が不思議なバランスを取って成立している不思議な作品と言えるだろう。

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