鹿児島へツーリング

梅雨が明けたので少し遠出をしたくなったので、鹿児島までツーリングに行きました。

まずは「東洋のナイアガラ」こと曽木の滝へ行きました。4月に行った大分の原尻の滝も同じ呼び名でしたが、九州には2つの「東洋のナイアガラ」が併存しています。

前の週までかなりの雨が降り続いたこともあり、かなりの水量でした。お昼をいただいた蕎麦屋の店員さんによると、通常の梅雨の時期よりさらに2割り増しくらいで水量が多いようです。見た目にも濁流と言っても良いほどの水量ですが、迫力は増しています。

「東洋のナイアガラ」の呼び名からすれば原尻の滝のほうがそれらしい気はしますが、水量のこともあり、迫力はこちらが上ですね。

同じ場所に昔の発電所の遺構もありました。

曽木の滝を後にして、次は池田湖へ向かいました。

九州最大と言うこともありさすがに大きいです。私の古いデジカメでは全景が納められませんでした。

池田湖を見終えた後、本日の宿泊場所へ向かいます。

今回キャンプツーリングに初挑戦したのですが、記念すべき最初のキャンプ場です。

キャンプ場は開聞岳の麓にある「かいもん山麓ふれあい公園キャンプ場」。本当に開聞岳が目の前に見えるキャンプ場です。

当日は平日と言うこともあり、到着した時点でキャンプ場の客は私一人でした。

広いキャンプ場を貸し切り状態です。この後暗くなってから1名他のライダーの方が来ており、朝になって気が付きました。

バンガローもありますし、街に近いのでスーパーやコンビニにも近く、便利なところでした。

温泉に入って料理でもしようかと思いましたが、あいにく温泉が定休日だったので入れず、疲れて料理もする気になれなかったので、スーパーで買った総菜を食べて早々に就寝しました。

翌日は、午前中から営業している温泉施設を探して鹿児島市に戻りました。本当は佐多岬に行く予定だったのですが、そちらに行くと2日目のキャンプ場の受付に間に合わなさそうだったので、残念ですが断念しました。

写真は鹿児島市の「一本桜温泉センター」早朝から営業している温泉施設で、かなり古い建物ですが、中は清潔で気持ちの良い温泉でした。

前日かなりの距離を走ったので、翌日はのんびりとキャンプ場を目指しました。2日目の宿泊は熊本の「人吉クラフトパーク石野公園キャンプ場」。

こちらも平日なうえ、天気もすぐれなかったので私一人の貸し切り状態です。

いったんテントを設営したところ、急に雲行きが怪しくなってきたので、慌てて炊事棟にテントを移動しました。

移動後すぐに本格的な雨になりましたので間一髪でした。雨は1時間ほどでやみましたが、サイトが雨で濡れてしまったので、当日はこのまま就寝しました。床が平らなのは良いのですが、下にウレタンのマットを敷いただけでは朝には体が痛くなってしまいました(暑くて寝袋は使いませんでした)。

こちらのキャンプ場も、歩いて行ける距離にコンビニや飲食店がありますし、少し車やバイクを走らせれば市街地に出られる一方で、キャンプ場自体は車の音も聞こえない静かなところでした。今回は私一人でしたが、これからのシーズンは賑わうでしょうね。

翌日は交通量の多い時間帯を避けて早々に帰宅の途に就きました。

初めてのキャンプツーリングでしたが、ちょっと暑すぎでしたね。夜寝るときもそうでしたが何より走行中も暑すぎてスマホは充電されないは、頭がぼーっとするはでいろいろ大変でした。次やるとすれば夏が過ぎてからでしょうね。

ある戦争:答えのない問いを巡って

f:id:Martin-A:20180626205824j:plain

評価:4(5点満点中)

総評:

2015年公開のデンマーク映画アフガニスタンに駐留するデンマーク軍の士官クラウスは、作戦中に自らが下した命令の結果、11人の民間人が犠牲となり、帰国後にその責任を軍事法廷で問われることになる。戦場における彼の判断は正しいものだったのか?

戦争をテーマとした映画としては地味な作品と言えます。殊更に愛国心や、その逆に反戦などの分かりやすいメッセージを強調するタイプの映画ではありません。派手な戦闘シーンが売りというわけでもなく、前半に描かれるのは、むしろどこか淡々としたアフガニスタンにおける駐留部隊の危険な日常です。本作の主人公であるクラウスは、その危険と隣り合わせの日々の中で、職務の遂行と部下への配慮の板挟みになりながらも最善を尽くす、軍人としての有能さと人間としての規範の高さを併せ持つ人物として描かれているように感じられました。

それだけに、本作の主題となる命令をクラウスが下したことについて、視聴者は答えのない問いを突き付けられることになります。

「クラウスの行為は犯罪として処断されるべきなのか?」

これはとても難しい問いです。視聴者は命令が下されるその瞬間まで、クラウスの視点から物語を観ています。そのため彼に対する感情移入があるためその命令が必要なものであったということを共感するでしょう。一方でその命令の結果失われた命があることも厳然たる事実として存在しており、それを無視することは出来ません。

どちらの答えにも依ることは出来ないこの問いについて、製作者は視聴者に判断を委ねる手法を取ります。ネタバレになるので詳細は避けますが、本作の終盤における、クラウスの裁判における決着は、おそらく感情的には共感できますが、倫理的には抵抗感が残る内容となっており、そのジレンマが本作の鑑賞後におけるなんとも言えない余韻となっていると感じました。

この答えの出せない問いを巡るドラマを、製作者はBGMも感情的な効果を狙う演出も(おそらくは意図的に)一切を排して描きました。そのことが本作の投げかけるテーマにより深みを与え、リアルな質感を与えることに成功しています。

娯楽として鑑賞するタイプの映画ではありませんが、一つのテーマを巡るドラマとして優れた作品であると思います。

最後の晩餐~平和主義者の連続殺人:映画は凡庸、背景は複雑

f:id:Martin-A:20180605122326j:plain

評価:1点(5点満点中)

総評:

1995年のアメリカ映画。共同生活を営むリベラルな5人の大学院生が、ある事件をきっかけに保守的な傾向を持つ人物を家に招いては殺害を繰り返す、、、という内容で、一応ブラックコメディという色分けとなっていますがコメディ要素は少なく、連続殺人に至るまでの経緯や、殺人の葛藤などもろくに書かれていないためドラマとしても深みがあるわけでは無く、どっちつかずの作品である印象です。脚本重視と言うよりは「リベラルな人物が保守的な人物を対象に連続殺人を行う」という発想重視で制作された印象を受けます。実際私もCATVで見るまで本作の存在自体知らず、番組表で概要を見て興味を持って視聴した程度です。

俳優陣はなかなか豪華なのですが、起用方法には疑問が残ります。当時すでにスターの仲間入りをしていたキャメロン・ディアスは5人の主人公の一人として埋もれてしまい、全く魅力が感じられません。なんでこんな映画に出る気になったのでしょうか?もったいないことです。同年に『アポロ13』に出演して高評価を得ていたビル・パクストンはある意味重要な役どころで出演していますが、あえて彼を起用する理由が理解しがたい役どころでした。

本作はいわば社会派ブラック・コメディというべき内容で、アメリカにおける保守とリベラルの対立がテーマとなっています。リベラルを代表する主人公5人と、その犠牲者となる10人の保守的な人物はそれぞれリベラル、保守のステレオタイプとして描かれているので、その点を理解していないとなぜ5人がこれらの人物を殺害しているのかすら分からないでしょう。その意味では日本などアメリカ以外の国では楽しむための前提となるハードルが高い内容と言えます。本国のアメリカですら、意識的に保守・リベラルの対立構造とそのステレオタイプを認識し、それをブラック・ユーモアとして楽しめる層がマスとして存在しているとは考えにくく、マーケティング的にいかなる層を対象とした作品なのか理解に苦しみます。厳しい言い方をすれば皮肉屋気取りのインテリが同類向けに制作した自己満足的な作品です。リベラルと保守の対立というテーマ自体はアメリカ映画(特にコメディ)には欠かせない要素なのですが、テーマそのものが前に出過ぎてしまい、コメディに全く昇華できていません。

製作者の意図としては、保守、リベラルのいずれかに肩入れするのではなく、その対立構造をステレオタイプなキャラクターを通じて揶揄するというところにあるとは思うのですが、肝心の脚本が起承転結もひねりもなく、保守派のステレオタイプが登場しては消えていくという繰り返しなので退屈な作品となってしまいました。

本作で評価できるのはロン・パールマン演じる政治コメンテーター(らしき人物)のノーマンでしょう(タイプは異なりますがラッシュ・リンボーあたりのコメンテーターがモデルでしょうか)。作品の当初から登場し、本作のタイトルも考慮すると最後のターゲットが彼であることはバレバレなのですが、保守的かつ扇動的なコメントでメディアを賑わす彼が、実際には極めて実利的で計算高く、保守ともリベラルとも距離をとるバランス的な人物であることが効果的にクライマックスへとつながっていくのですが、長身で体も顔も厳つい性格俳優であるロンが、そのギャップを巧みに演じています。正直なところノーマンを主人公に同じテーマで脚本を書いたほうがよほど良い作品が出来たのではないかと思います。

ちなみに本作のEDは少年ナイフがカバーした『Top fo the world』なのですね。95年と言えばすでにグランジの全盛期だったな、と少し懐かしくなりました。

 

マイ・インターン:都会のおとぎ話

f:id:Martin-A:20180517202616j:plain

評価:3点(5点満点)

総評:

2015年のアメリカ映画。非常に見やすい映画と言えます。主人公をはじめ悪人や嫌な奴は一切出てきません。視聴者の心に刺さるようなきついシーンもなく、ストレスなく安心して最後まで見ることが出来る映画です。最後まで気持ちよく見ることが出来て、エンドロールで少し元気になる。そんな作品です。

物語としてはアン・ハサウェイ演じるIT企業の経営者ジュールズのもとに、社会貢献の一環として採用したシニア・インターンとしてロバート・デ・ニーロ演じるベンが訪れるところから始まり、昔堅気だが誠実なビジネスマンであるベンが如何にも今風のIT企業であるジュールズの会社と彼女自身をも変えてゆく、、、という、まあありがちな内容です。ベンの存在を外国人や子供、地方からの上京したてのお上りさんなどに置き換えれば過去に似たような話はいくらでもある内容と言えます。ベンが現代のIT企業の風土に戸惑うことなく早々に受け入れられるなど、中々にご都合主義的な部分も目立ち、ドラマとして深みも感じられる内容でもありません。どう考えても現実にはあり得ない、いわばおとぎ話です。ありがちな設定、ありがちな物語、波乱のない脚本。本来であればもっと評価は低くともおかしくない作品です。

それでも本作を低く評価する気になれないのはやはりデ・ニーロ演じるベンのキャラクターの魅力にあります。ブルックリンで生まれ育ち、電話帳会社を定年まで勤めあげ、身だしなみに気を遣い、仕事に熱心で誠実な、いかにもニューヨーク風の紳士。正にニューヨーク生まれである(デ・ニーロはグリニッジ・ヴィレッジ出身ですが)彼のためにあるような役柄であるベンを、デ・ニーロが魅力たっぷりに演じています。過去の作品の数々で演じた役柄に比べれば、その演技力が際立つキャラクターではないものの、当時72歳のデ・ニーロだからこそ演じられる誠実さと温かみのあるベンのキャラクターが本作の一番の魅力であると言えます。

映画に限らず小説や漫画、演劇でも多くの作品で踏襲されるパターンやテンプレートがあり、ハリウッドでヒットするような映画には、多かれ少なかれそれらの類型に当てはまるものです。逆に言えば「今まで見たこともないようなお話」と言うのは本当にまれで、特に歳を重ねてそれなりの数の作品に触れたことがある人であれば、どうしても「この話は~に似ているな」と感じるものです。それを分かっている製作者であれば、すでに似たような話が氾濫する中で作品の魅力をどこに置き、観客に対して訴求するのかを考えているはずで、以前感想を書いた『レザボア・ドッグス』であれば物語の構成であり、本作であればベンのキャラクターとそのキャスティングにあると言えるでしょう。デ・ニーロ演じる地味だがカッコいい爺さんを見るだけでも価値がある映画です。

レザボア・ドッグス:構成の妙

f:id:Martin-A:20180514210349j:plain

評価:4点(5点満点中)

総評:

92年公開のアメリカ映画。クエンティン・タランティーノ監督の初監督作品であり、本作の高評価を切っ掛けに、次作『パルプ・フィクション』で一躍スター監督の仲間入りを果たすことになります。また、日本におけるインディペンデント系映画の認知度が広がる嚆矢となった一本でもあります。

本作の魅力は何と言ってもその構成の巧みさにあると思います。映画の粗筋自体はむしろありがちな犯罪ものであり、物語そのものにそれほどユニークな点があるものではありません。ダイヤモンド強盗の為に集められた、互いに素性も知らない5人の犯罪者。その破滅的な顛末が描かれた本作ですが、その特徴は時系列を前後させた進行と、複数の視点を絡めた群像劇にあります。

単純に時系列を過去から追うのではなく、ダイヤモンド強盗の直前・直後から映画が始まり、警察の待ち伏せを受けた主人公達は追い詰められ、疑心暗鬼に陥ります。そしてそれを追うように3人のキャラクターが強盗計画に加わるまでの経緯が挿入されます。最初に起承転結の「転」を描き、「なぜこんなことになったのか?」を過去の時系列を絡めて描くことで、観客の関心を引き付けるこの手法は次作『パルプフィクション』でさらに洗練された形に結実しますが、本作でも十分に効果を発揮しています。本作は1時間40分程の上映時間ですが、単純な物語ながら飽きさせることなく「この後どうなってしまうのか?」、起承転結の「結」に向かって物語は転がり落ちていきます。この流れは今観ても良くできています。本作が初監督作品とはとても思えないほどです。

破滅に向かうギャングたちを演じる俳優陣も素晴らしく、ハーヴェイ・カイテルをはじめ、一癖も二癖もある個性派の俳優たちが存分にその魅力を発揮しています。どちらかと言えばみなバイ・プレーヤーの印象が強い役者ばかりですが、本作の群像劇的な手法と、「寄せ集めの強盗チーム」という成り立ちを考えてもベストキャスティングであると言えます。

本作はもう25年以上も前の映画ですが、今観ても古臭さは感じず、魅力は薄れていません。それはつまり、先述した「ダイヤモンド強盗の為に集められた、互いに素性も知らない5人の犯罪者。その破滅的な顛末」という、いわばテンプレート化した物語設定が時代性の呪縛から本作を開放し、タランティーノの優れた構成力を純粋に楽しむことが出来る作品だからでしょう。本作にはスマホもe-mailもフェイスブックもインスタグラムも登場しません。この時代になかったからではなく、物語に必要がないからです。その時代性の無さゆえに、10年後でも今と同じように楽しむことが出来るのではないかと思います。(でも冒頭の会話がマドンナのヒット曲について、と言うのはさすがに今の若い人には分からないでしょうね)

 

ワンス アポン ア タイム イン アメリカ:長所と短所がそれぞれ際立つ作品

f:id:Martin-A:20180508125912j:plain

評価:2.5(5点満点中)

総評

久々に見ましたが、やはり評価の難しい作品です。セルジオ・レオーネの遺作となった本作ですが、可もなく不可もない駄作でもなく、かといって非の打ちどころのない傑作とも言い難い。好きか嫌いかで言えば好きの範疇に入る作品なのですが、評価しようとするとどうにも粗が気になってしょうがない。そんな作品です。良い点は本当に琴線に響くのですが、作品としての瑕疵(と私が考える部分)は無視することも難しい。はっきり言えば好みに合わない人にとっては評価のしどころのない作品と言っても過言は無いでしょう。

本作の良い点、悪い点をそれぞれ挙げると、

【良い点】

①エンリオ・モリコーネの音楽

エンリオ・モリコーネという作曲家は非常に器用な人で、多彩なジャンルの映画に対して楽曲を提供していますが、やはり人のノスタルジーを惹起する抒情的な曲を書かせると素晴らしく良い仕事をします(『ニュー・シネマパラダイス』や『海の上のピアニスト』などもそうですね)。本作も劇中の音楽が素晴らしく、3つの時代を交錯する物語において、特に老年に差し掛かった主人公の心情を切ないまでに演出します。しかしこれだけ「聞きやすい」と感じさせる楽曲で、なおかつモリコーネの楽曲であることを一聴しただけで分からせてしまう個性というのは作曲家としてはつくづく稀有の才能と思わざるを得ません。

②俳優陣の演技

主演であるヌードルスを演じたロバート・デ・ニーロはもちろんのこと、その相手役であるマックスを演じたジェームズ・ウッズが素晴らしいです。親友でありライバルであり商売仲間であり,,,,対極的な生き方でありながらも確かな絆を感じさせる複雑な関係を見事に演じています。デ・ニーロの芸達者振りは今更言うまでもありませんが、アクション映画のイメージが強いウッズの、デ・ニーロにも引けを取らないその好演がむしろ光る作品と言えます。

【悪い点】

※本作のネタバレを一部含みます

①整合性不足の脚本

②説明不足の演出

本作はヌードルスとマックスの関係を軸に、一種のミステリー要素を絡めた物語なのですが、その整合性がどうにもちぐはぐで、納得感が得られないのです。一例を挙げると、

・物語の冒頭でヌードルスは誰に追われていたのか?なぜ追われていたのか?

・同様にファット・モーが拷問を受けていた理由は何か?

・マックスはヌードルスをなぜ裏切ったのか?

・マックスはパッツィとコックアイも裏切っていたのか?

など、視聴後に腑に落ちない点が多々残ります。結局のところマックスと言うキャラクターの背景設定や動機付けが全くできていないので、クライマックスで明かされる彼の過去の行為に説得力が感じられないのですね。脚本や演出で捕捉できていれば良いのですが、むしろ終盤のマックスの登場に向けた意図的なミスリードを仕向ける演出(「いかれてる」との言葉への過剰反応、父親が精神を病んだことへの言及)のため、かえって脚本の分かり難さが増している気がします。個人的には登場人物の動機や物語の背景を過剰に説明する作品は好みではないのですが、さすがに本作は省略のし過ぎではないかと感じます。端的に言えば脚本と演出が伏線の仕込みに失敗した作品と評価せざるを得ません。

③上映時間の長さ

4時間弱という本作の上映時間はやはり長すぎです。本作では少年期/青年期/老年期の3つの時代軸が交錯するシナリオ構成となっていますが、少年期と青年期のエピソードが長すぎてどうにも中だるみする印象がぬぐえません。また、これだけの時間をかけながら、上記①、②で挙げた問題点を解決できなかったという点はやはり見逃せません。4時間近い時間を取るのであれば、もっと自然に物語上必要な伏線、特にマックスの行動に対する動機付けや背景を仕込むことは出来たのではないかと思います。それが出来なかったがため、本作は物語に対する納得感(カタルシスと言っても良い)が非常に薄い仕上がりとなったと感じました。

 

以上となります。

演技や音楽については満点に近く、脚本と演出は赤点という評価にならざるを得ません。最終盤のごみ収集車やエンドロールで見せるデ・ニーロの意味ありげな笑み(凄い表情!)といった演出も、正直上滑りしている感が否めません。本作は米国上映時に時系列を編集された、という点がよく否定的に語られるのですが、改めて視聴すると、なんだか配給会社側の気持ちも分からなくもない気分になりました。

原尻の滝

雲一つない晴天が続くのでバイクに乗りたくなり、またツーリングに出かけました。

行き先は原尻の滝。福岡の自宅からは4時間ほどの距離です。

別名「東洋のナイアガラ」。実際に見るのは初めてなので楽しみです。当日も気持ちの良い絶好のツーリング日和です。途中松原ダムや久住高原を通過しましたが、晴天に景観が映えて実に気持ちよく走れました。この日田街道~旧小国街道の道は何度も走っていますが、平日ですと車も少なく、適度なワインディングもあるため非常に快適なツーリングコースです。

原尻の滝に到着しました。

接写した写真で見るとそうでもないのですが、実際に見ると規模はそれほど大きな滝ではないです。実のところ知人からも「東洋のナイアガラってのは名前負けだ」と言うことは聞いていたのでがっかりはしませんが、さすがにナイアガラは無いよなと思います。上の2枚を見るとなかなか秘境感のある風景なのですが、少し引いた感じで撮ると

こんな感じですぐ近くに道の駅があり、また道路からも非常に近い位置にあります。(下の写真のすぐ右が原尻の滝です)

周囲は畑や民家に囲まれているので、むしろ原尻の滝が一種の異景のようにはめ込まれているようにも感じられます。これほど人跡の近くに幅広の滝が見える風景と言うのは逆に他には無いかもしれませんね。

滝の長さは20~30mと言うところで本家ナイアガラに比べるべくもないのですが、写真の上手な方が人跡の入らないカットで撮影するとなかなか凄い写真が撮れるのではないかと思います。

道の駅の近くにはつり橋がかかっています。

つり橋から撮影。

川まで下りて近距離で滝を見ることも可能です。

何故か川の中に建てられた鳥居。

水車の回る茶屋。

当日はチューリップフェスタの最終日でしたが、花はほとんどしぼんでいました。残念。でも人出はありましたね。平日だというのに道の駅の駐車場は満杯でした。

菜の花はぎりぎり間に合った感じです。

キリンビールを愛飲しましょう!」というのが面白かったので思わず撮影。

帰りには道の駅おおやまに併設された「想夫恋」で日田焼きそばを食べました。GW後にまたどこかへ出かけるつもりです。