ブレードランナー2049:良くも悪くも正当なる続編

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評価:3.5(5点満点)

 総評

1982年公開、SF映画の金字塔『ブレードランナー』35年ぶりの続編。

多少SFに造詣のある方ならご存知だと思いますが、過去にも続編の噂が出ては消えること幾星霜、ついに公開を迎えた話題の作品です。

あまりの長い時間噂ばかりが先行するため、正直なところもう続編が制作されることはあるまいと思っていましたが、なんと本当に制作されていました。ファンとしては期待が高まる一方なのですが、巷の評価を聞くと賛否両論と言ったところ。興行収入も膨大な製作費を考慮すると振るわない結果のようで、一部ではすでに失敗作の烙印を押される向きもある本作品、実際のところどう評価すべきなのでしょうか?

実際に観た感想としては、『ブレードランナー』の続編としても、前作を抜きにした単体の作品としても十分に及第点を与えられる内容でした。

同時に決して映画史に残る傑作、名作となる作品でもないと感じました。賛否両論の評価となることも納得です。これは本作が『ブレードランナー』の続編として正しく作られているが故の宿命であるとも感じました。以下では前作『ブレードランナー』の位置づけを踏まえ、今作の評価を記していきたいと思います。(『ブレードランナー』『ブレードランナー2049』の一部ネタバレあります)

 

前作『ブレードランナー』はどんな作品?

前作『ブレードランナー』は言わずと知れた(と言うには知名度の面で弱いが)SF映画の傑作です。なぜ『ブレードランナー』が傑作であるのか?乱暴に言うならば「エポックメイキングな作品」であることに尽きるでしょう。「エポックメイキング」とはどういうことか?それは『ブレードランナー』がSF作品であることを踏まえれば「まだ誰も見ていない(当時)未来」を見せた作品であり、その後「多くのクリエーターが見た未来」を示した作品であるということです。

ブレードランナー』が公開された1980年代前半、SFと言えば『STAR WARS』『E.T』などのヒロイックな作品やファンタジー要素の強い作品が主流でした。揶揄するような表現で恐縮ですが要は「おとぎ話」です。善と悪の対決であり、宇宙人が登場し、超能力が乱れ飛ぶ、日常から離れた娯楽作品こそがメインストリームでした。

一方で同じ時代に公開された『ブレードランナー』の世界観は主流からかけ離れていました。そこで示されたのは我々の現実の先にある未来の姿でした。酸性雨に晒されたロサンゼルスの陰鬱な風景、怪しげなネオン、ディスプレイに飾られた高層ビル群の猥雑、スピナー(劇中に登場する飛行車)をはじめとするテクノロジーの進歩と同時にレプリカントに示されるその反乱。ここには宇宙人も超能力者も登場しない、善と悪の戦いもない。この作品が画期的であったのはまさしくその世界観であり舞台設定であったといえます。フィリップ・K・ディックが幻視し、シド・ミードがデザインし、リドリー・スコットが形にした未来の姿はそれまでになくリアルで、退廃的で、魅力的だったのです。

それゆえに、と言うべきだろうか。『ブレードランナー』は決して分かりやすい映画ではありません。もっと言ってしまえば誰もが楽しめる映画でもなく、はっきり言って人を選ぶ作品です。すでに述べたように『ブレードランナー』は単純な善と悪の物語でもないし、宇宙人も超能力者も登場しない。話の筋は単純で、2019年(現実世界でなんと再来年!)のロサンゼルスで逃亡したレプリカント(人造人間)をブレードランナー(人造人間専門の捜査官みたいなもの)が追う、というだけの話です。追われる側のレプリカントは人造人間であるがゆえに見た目は人間そのものだし、身体能力に秀でている以外に映画映えするような能力は無い(目からビームもロケットパンチも出さない)。追う側の主人公にしても、ハリソン・フォード演じるデッカードは『STAR WARS』のハン・ソロとは違い、口数も少ない陰鬱な中年であり、ヒーロー的魅力に欠けること甚だしい(最後の戦闘シーンでは一方的にぶちのめされているだけでカタルシスの欠片もない)。

結果として公開当時、『ブレードランナー』の興行成績は振るわず、商業的には失敗することになります。それでも『ブレードランナー』が傑作として今なお評価されるのはやはり当時としては斬新であり、のちに多くのフォロワーを生み出したその世界観や舞台設定の秀逸さにあるといえるだろう。(同時にディックの原作の主題であるアンドロイドと人間の境界線をめぐる苦悩や葛藤、人間性をめぐるドラマも魅力の一つであるが、その点は後述する)

 

正当なる続編『ブレードランナー2049』

ブレードランナー2049』ですが、鑑賞後の印象としては「良くも悪くも前作を正しく受け継いだ続編」であると感じました。35年の長きを経て公開された本作は、製作者が名作の威を借りた安易な続編に堕することなく誠実に取り組んだことがよく分かる佳作であると言えます。一方でその誠実さこそが、賛否両論を呼ぶ結果となり、興行的な失敗を招いたとも言えるでしょう。

本作ではレプリカントブレードランナー(レプリカントを狩るレプリカント)である"K"に主人公が移り、彼を中心に物語が展開します。出産の痕跡のあるレプリカントの遺体発見を端緒に、"K"が生まれた子供を追うミステリー調に話が進み、その過程で天才科学者である大企業CEOの陰謀や30年前に姿を消したデッカード、"K"自身の記憶の謎、レプリカントの抵抗組織などの要素が絡み合う構成となっています。

これらの要素を踏まえれば、ちょっとしたSFアクション大作として制作を進めることは容易いことだと思えますが、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督をはじめとする制作陣はそれを選びませんでした。彼らが選択したのは一人のレプリカントである"K"の物語を描くことでした。このことが本作を『ブレードランナー』の正当な続編であると評価する大きなポイントであると言えます。

そう、今作は"K"の物語なのである。ウォレスの陰謀も、レプリカントの子供の秘密も、デッカードの再登場もレジスタンスの戦いも物語の中心ではありません。物語の中心はあくまで"K"であり、彼の自身の存在に対する彷徨こそが本作の中心となるのです。

'K'はブレードランナーとしての任務に従事するレプリカント(=同族殺し)である。そのため人間社会に溶け込むレプリカントとして人からは厭われ、同じレプリカントからも畏怖され、白眼視されている。自宅でAIのジョイと疑似的な恋人として過ごすことで孤独を癒す彼が、レプリカントの子供を追う中で、自らの存在に疑念を抱き、特別な存在である希望を抱き、その希望に裏切られ、絶望し、すべてを失い、それでも立ち上がり戦いに赴く。それが『ブレードランナー2049』という、一人のレプリカントの物語です。

思えば前作『ブレードランナー』も、主人公はデッカードであるものの、実質的にはレプリカントの物語であった。前述したように前作のデッカードは主人公としてはヒーロー性にも個性にも欠ける存在です。一方で主人公と対峙する形となるレプリカントはむしろ非常に魅力的に描かれています。中でもルトガー・ハウアー演じるレプリカント、ロイ・バッティの存在が際立ちます。

奴隷としての生を拒否し、限られた寿命を延ばすために逃亡し、自らの生みの親にその希望を否定され、絶望の中でデッカードと対峙するも最後は彼を殺さなかったロイ・バッティの最期は映画史上でも屈指の名場面です。

俺はお前ら人間には信じられぬものを見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船やタンホイザーゲートのオーロラ。そういう思い出もやがて消える。涙のように、雨のように。その時が来た。

そう言い残し、かすかに微笑んでロイ・バッティは機能を停止します。レプリカントとしての彼の生涯とその想いが集約されたようなこの最期を見れば、『ブレードランナー』の物語上の主役はデッカードでも、真に描きたかったものはレプリカントの物語であったと分かります。

本作の制作陣も、この名場面と名高い"Tear in rain monologue"を意識してラストシーンを描いたのであると思います。

今作の最後では、娘との再会に赴くデッカードを見送った"K"は一人雪の中に佇み最期を迎えます("K"の死は明示されていませんが、それを言うのは野暮というものでしょう)。ロイ・バッティが絶望の中でデッカードを殺さなかったように、"K"は絶望の中でデッカードを娘に会わせることを決意して、それを果たします。静かに体を横たえる"K"と、それを包む雪景色は美しくも切なく、「"K"の物語」の幕を下ろすにふさわしい静かな余韻を残すものです。つまり『ブレードランナー2049』も前作と同様に、ヒーローでもない、救世主でもない、ただの一人のレプリカントの物語であり、その点が本作を「正当な続編」と評価する所以です。

 

・『ブレードランナー2049』は失敗作なのか?

ここまで本作の評価を前作との関係で進めてきましたが、ならば「正当な続編」たる本作は同時に失敗作なのでしょうか?

先に書いたように、そもそも前作『ブレードランナー』自体が人を選ぶ作品であり、興行的には失敗したと言える作品です。その前作を誠実に踏襲した今作は、人を選ぶ、という点でも「正当な続編」です。"K"を中心としたその物語は構造上どうしてもスケールダウンすることとなりカタルシスの減少は否めません。またストーリーの基幹にどうしても前作の知識を必要とする部分が多いため更に一見さんに対するハードルの高い作品となりがちです。

従って、

にはなかなか訴求しない作品であると言えるでしょう。一方で前作の物語に惹かれたファンであれば十分に期待に応える内容であると言え、この点が賛否両論も当然と判断した理由です。

また、これも先に書いたように『ブレードランナー』はその世界観やデザインでエポックメイキングとなった作品でもあります。しかし続編である本作はその世界観を含めて踏襲しており、すでに前作の公開から30年がたち、様々な作品で使い倒されているその世界観はすでにレトロですらあり、エポックメイキングとは程遠いものです。前作がその後のクリエーターに多大な影響を与えたことを考えても、今作を映画史上に残るマスターピースと評価することは難しいでしょう。非常に良質な続編であることは間違いないと思いますが、これも「正当なる続編」であるが故の構造的な欠点であると言わざるを得ません。かつて前作を観た時の衝撃を本作に期待する層にもやはり訴求しないものと思われます。

 それでも前作のロイ・バッティの最後に涙したファンであれば、今作の"K"の最後に静かな感動を覚える佳品と呼ぶにふさわしい作品です。興行収入の面では前作同様厳しい結果となるようですが、30年以上待ちこがれたファンに誠実に答えた作品だと思います。

・『ブレードランナー2049』続編は作られるのか?

正直なところよくこの内容で本作がよく公開までこぎつけられたものだと感心します。おそらく映画会社としてはあわよくば更なる続編の制作も視野に入れていたのではないかと思います。実際本作には「けれん味にあふれたラスボス的悪役(ウォレス)」「レプリカントにとってのメシア的な存在であるデッカードの娘」「レプリカントの開放を目指すレジスタンス」など未消化の設定や伏線が多々残されています。おそらくこれらはすべて続編で使用することを想定して主に映画会社の指示で挿入されたものではないかと思います。仮に本作がヒットしたならばこれらをフルに活用した超大作SFを続編として作る思惑があったのではないでしょうか?世界を支配する大企業とそれに立ち向かうレジスタンスなんて分かりやすい設定を『ブレードランナー』のブランドで作りましょうか、なんて安易な考えで。もちろんこれまでに述べたように、そのような作品はすでに『ブレードランナー』ではあり得ません。仮に『ブレードランナー2049』の続編が作られるとしたら、それは約束された失敗作となるだろうことは自明であると思います。

本作の評価すべき点は、制作費を考えれば堂々たるハリウッド超大作でありながら、前作の正当な続編を描き切り、公開までこぎつけた制作陣にあるでしょう。本作はSF映画としては地味な作品です。クライマックスであるはずの"K"とラヴのバトルなどただの肉弾戦ですよ(こんなところまで前作を踏襲している!)。分かりやすく壮大な物語に繋がる伏線を一切無視して、なんら特別ではないただのレプリカント"K"の物語を描き切った制作陣には敬意を覚えずにいられません。

 

今作の最後でデッカードは"K"に尋ねます。

なぜここまでする?君にとって俺は何なんだ?

"K"は最後まで質問に答えず、彼に娘に会うように示します。"K"にとってデッカードは「父親だったかもしれない存在」であり彼の娘は「自分がそうであったかもしれない特別な存在」なのですね。それを思うと結局「ただのレプリカント」でしかなかった"K"にとってデッカードの問いは無自覚でありながら残酷です。期待に裏切られながらもそれを語ることもなく、デッカードを殺すのではなく娘と会わせることを決断し、果たした後、静かに最後を向かえる"K"の姿がロイ・バッティに重なります。

デッカードは30年の時を経て再びレプリカントに救われ、問いを突き付けられたことになります。その答えはきっと同じものだったのでしょう。