処女の泉:絵画めいた映像で綴る受難の物語

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評価:3点(5点満点中)

総評:

イングマール・ベルイマン監督による1960年のスウェーデン映画。氏の代表作と言っても過言ではないだろう。

未だ北欧神話の土着の神々への信仰と、キリスト教が混在する中世スウェーデンを舞台に、敬虔なキリスト教の信徒である地主の一家に降りかかる悲劇と復讐、そして受難の物語だ。

ベルイマン作品の特徴と言っても良いが、物語の背景となるキリスト教の知識や、端々に込められた寓意が存在し、読み手に対するハードルが高い。特にキリスト教文化圏から外れると、理解が追い付かない部分が多々ある作品と言える。自分の場合、どうにも文系インテリ層のアクセサリー的なイメージの強いベルイマン作品なのだが、キリスト教圏ではどうなのだろうか?市井の観客が一見して理解できるモチーフなのか、ちょっと興味があるところだ。

大切にしていた一粒種の娘を凌辱・殺害された父親は、犯人である兄弟を殺して復讐を果たす。被った悲劇も自らの手による復讐も、全て見ていたはずの神は沈黙を守り続け、父親はそれを糺しつつも、縋りつくようにその信仰を捨てようとしない。誓いを立てた教会の建立は罪の証であり、同時に贖罪の証明となるのだろう。旧約聖書ヨブ記新約聖書のイエスの受難に見られる、受難の物語の類型を、ミニマムに描いた作品だ。しかして本作には作家としてのメッセージは存在しない。受難の物語を描くことが目的であり、そこに作家的なメッセージは不要だからだ。とかく語りたがりか、逆に内容の薄い昨今の作品と比較すると、その背景と物語の重厚さはむしろ新鮮に感じられる。『第7の封印』のレビューでも書いたが、ベルイマンのような作家の作品はエンターテイメントとして楽しむ作品ではない。絵画や音楽を鑑賞するように嗜む類の作品なのだろう。漫然と画面を見ながら楽しむのではなく、能動的に作品を鑑賞する一種の気構えが必要だ。となるとやはりハードルが高い作品だ。このような作品ばかりを観るのは気疲れがするが、エンタメ作品に飽きが来ているのなら、偶さかこのような作品を見るのも悪くないものだ。

しかしベルイマンの作品を見るといつも思うのだが、実に絵画的な絵作りをする監督だと思う。むしろ静止画として映えるようなカメラワークが多く、動画であるのに躍動感や喧噪を感じない静的な場面が印象的だ。"動き”を撮ることが不得意と言うより興味がないのではとすら感じる。これもベルイマンの一つの個性であり、作家性の証左を言えるのだろう。