PLANET OF THE APES/猿の惑星 : 史上最も”オチ”が知られた映画に挑んだ結果は?

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評価:3点(5点満点)

総評

1968年に公開されたSF映画の名作『猿の惑星』をベースとして制作された2001年公開のアメリカ映画です。

猿の惑星』と言えばSF映画史上に名高い名作であると同時に、おそらく映画史上最もその”オチ”が知られている映画の一つでしょう。映画そのものは観ていなくとも、そのオチだけは知っているという人もかなり多いのではないでしょうか?本作はそんな名作を下敷きに新たに制作された2001年版の映画です。監督は鬼才ティム・バートン

前提として本作は68年版『猿の惑星』のリメイクではなく、あくまで68年版をベースとした”リ・イマジネーション”であると監督は述べています。実際ストーリーに68年版(およびそれに続く一連のシリーズ)との直接の関係はなく、前作、前シリーズを観ていなくとも問題は無い内容となっています。

とは言うものの、そこはやはり『猿の惑星』の名を冠する本作も基本的な設定やストーリーは前作を踏襲しています。「主人公の宇宙飛行士が事故の結果不時着したのは、猿が人間を支配する惑星だった。」という導入から始まり、その後主人公がたどる道程はほぼ68年版と同様の流れとなっています。(猿の集団に捕まる→猿側の理解者の知遇を得る→知遇者と人間の一部を引き連れ脱出)

ここまで前作を踏襲した流れとなっているわけですからやはり前作最大の衝撃であったあの”オチ”をどのように処理するのか期待がかかるわけです。しかも監督がティム・バートンですので、単純な模倣にはとどまらないだろうと更に期待は増します。

で、その肝心の”オチ”なのですが、少々微妙な内容でした。内容はネタバレになるので書きませんが、どうやら公開当時も賛否両論だったようです。実際内容的に唐突に過ぎるところもありますし、あのラストからなぜこのオチにつながるのか?という整合性が説明できない点があるのも事実です。ただこの”オチ”だけをついて本作を前作に対する失敗作と断ずるのは尚早だと思うのですね。

68年版『猿の惑星』はあまりに有名すぎる”オチ”のせいで、むしろ「観られることが少ない名作』だと思いますが、その続編である4作品すべてを観ている方はさらに少ないでしょう。『猿の惑星』シリーズは『猿の惑星・征服』までの4作品で1作目からの疑問・伏線を回収する、シリーズものとしても屈指の傑作なのです(最終作は外伝的な要素が強いですが、こちらもラスト・シーンが有名)。そのことを考慮すると、本作のオチも本来続編でその秘密が明かされることを狙ったものだと考えられます(どう考えても続編を意識した内容ですし)。結局続編が作られることがなかったため、その謎は永遠に謎のままですが、もし作られていればまた評価も変わったものになったかもしれません。まあ68年版はそのオチも含めて第1作単体でも十分に作品として成立することを考えればやはり映画の出来としては68年版に軍配を挙げざるを得ないのですが。また、68年版と異なり人間側が退化(言葉をしゃべらない、文化を持たない)しているわけではないのに、猿に従属しているなど本作のみを観ても整合性が取れない部分は多々あることも否めないでしょう。

一方で本作ですがキャスティングが面白いです。主演のマーク・ウォルバーグ以外にも、ティム・ロス、ヘレン・ボナム・カーター、マイケル・クラーク・ダンカンなどのスターがキャスティングされていますが、主演のウォルバーグ以外はすべて猿側の役なのですね。当然猿の特殊メイクのため、俳優本人の顔が分かり難いですし、どうせメイクするならこれだけのビッグ・ネームでなくても、と思わなくもありませんが、そこはまあ、ティム・バートンですから(ティム・ロスはあのメイクでも分かりやすいですし、本作一番の熱演と言っても過言ではないです)。主人公達が馬で逃走するシーンではヒロイン(?)のディナの馬だけずっと白馬なのはやはりギャグのつもりなのか、とかポール・ジアマッティ演じるリンボのキャラなど、所々に監督らしいユーモアを感じる作品でもあります。

あとカメオ出演(?)的に68年版の主人公テイラーを演じたチャールトン・ヘストンが登場するのですが、その配役がアレなのはやはりリベラル支持のティム・バートンから見たヘストンの投影なのか、と勘繰るのは穿ち過ぎでしょうか・・・

続編がつくられていればもっと評価されたかもしれない本作。68年版を観たことのない方であれば楽しめる映画だと思います。

BS1スペシャル 「少女が神になるとき ~クマリ ネパールの祈りとともに~」:現代の「生き神様」

1/2放送のBS1スペシャル「少女が神になるとき ~クマリ ネパールの祈りとともに~」を視聴しました。

 

www.nhk.or.jp

”クマリ”と呼ばれ、ネパールで信仰される「生き神様」についてのドキュメンタリーです。”クマリ”は3歳程度の少女から選定され、選ばれた少女は初潮を迎えるまでの約9年程度を生き神様として過ごすことになります。家族から離れ、「クマリの館」と呼ばれる家で生活し、年に数回祭事を執り行う場合を除き、館から外出することも許されません。番組では”クマリ”を巡るネパールの人々の信仰を追い、更に12歳を迎えた当代のクマリが新たなクマリへと交代する様子を伝えます。

6年ほど前にネパールを旅行した際に、私もガイドに連れられてカトマンズの旧王宮広場にあるクマリの館を訪れたことがあります。番組を視聴したのもその時のことを思い出したからなのです。当時のガイドさんの話によれば、クマリの館はカトマンズ観光でも定番のコースなのだそうです。番組でもその様子が映されていましたが、一日に何度か窓からクマリが顔を出して、人々が祈りをささげる様子をうかがえます。その場には外国人も立ち会えます。ただし、クマリの写真を撮影することは禁止だったのですが、その慣習は今でも守られているようです。

番組で興味深かったのは、後半で描かれるクマリの代替わりのシーンですね。番組では先代のクマリにも取材を行い、生き神から人へと戻る際の苦労も語られると同時に、当代のクマリの父親のインタビューではクマリという制度を如何に現代に継承してゆくか、その一方で一人の父親として生き神から人に戻る娘をどう迎えるべきか苦慮する様子が描かれます。私がネパールへ旅行したのが6年ほど前なので、その時のクマリがこの番組で代替わりした彼女なのでしょうね。彼女が新たなクマリその座を譲り、館を出て家に帰り、人としての生活を始めて中学校に編入するまでの様子が描かれるのですが、過度に情緒的とならず淡々とその様子が映されるのですが、その様子は一つのドラマとして不思議に胸を打つものがありました。同じBS1スペシャルの番組でも先日の「欲望の資本主義2018」はひどい出来でしたが、こちらは地味な内容ながら良作でした。

”クマリ”という制度自体はPC的な文脈では批判、非難を受けかねないものである可能性もあるのでしょうが、ネパール国民以外の立場でそのような指摘を行うのは憚られるとも感じました。

BS1スペシャル「欲望の資本主義2018 闇の力が目覚めるとき」:新年一発目でコレは辛い

1/3にBS1で放送された「欲望の資本主義2018 闇の力が目覚めるとき」を視聴しました。この番組昨年も放送されていて、視聴した記憶がある(中身はさっぱり覚えていませんが)ので、一応録画しておいた次第です。

www.nhk.or.jp

で、感想なのですが、はっきり言って時間の無駄としか言いようがありませんでした。正直なところここまで内容がスカスカの番組とは思いませんでした。この番組を企画した人物が、番組を通して何を訴えたかったのか最後までさっぱり分かりませんでした。

2018年新春。新たな年の始まりに、私たちはどこから来て、どこに居て、どこへ向かおうとしているのか?ぜひ一緒に考えましょう。 

 番組のプロデューサーはこのようなコメントをしていますが、要するに問題意識もそれに対する答えもなく、漠然としたテーマだけを基に各国の知見者のコメントを繋いで番組を作っただけの粗悪な代物としか思えませんでした。インタビュー・ドキュメントと称してはいますが単なるコメント集以上のものではないでしょう。

一応タイトルにもあるように、現代における資本主義のあり方が番組のテーマであり、それが現在ある種の行き詰まりを見せているのではないか、と言うことを問うているのですが、なんと言うか何を焦点に話をしたいのかわからないのですよ。テクノロジーの発展と成長の関係を話したかと思えば格差問題に移り、唐突にテーマがポピュリズムを巡る問題に変わったりと、個々の問題を見れば確かにそれぞれ現代社会における課題ではありますが、「欲望の資本主義」をテーマとした一貫性が全く感じられないのです。

企画者はおそらく資本主義が限界を迎えているのだと考えたいがためにこの番組を企画したのでしょうが、代替として挙げられるのがバーニー・サンダースに代表される社会主義的な思想という陳腐なもので、それはあくまで互いに補完関係にあるだけで代替でも何でもないだろうとツッコミを入れたくなるような内容ですし、資本主義のアンチテーゼとして今更マルクスシュンペーターはないだろうとしか言えません。全く新しい視点が感じられないのですよ。酒場の愚痴をアカデミズムで装ったものにすぎません。

サブタイトルにある「闇の力」とやらも結局その実態が何であるか明らかにされません。ポピュリズムグローバリズムが示唆的に言及されていますが、前者は資本主義と言うよりは民主主義の課題として扱うべきでしょうし、グローバリズムについてはあくまで先進国の中産階級の視点からのみその弊害が語られます。グローバリズムが実現した新興国における経済レベルの底上げなど、恩恵となる部分は全く言及されません。

テーマも曖昧で取り上げるトピックも陳腐。識者へのインタビューの間がモノローグじみたナレーションでつながれるのですが、この内容がまた情緒的なばかりで繋ぎになっていない。あまりにこのモノローグ部分が退屈なので何度も寝落ちしたくらいです。

敢えて見るほどの内容ではなかったというのが正直な感想です。そもそも「闇の力が目覚めるとき」なんてサブタイを大真面目につけるような番組を観るべきではありませんでした。厨二病か。

ロボットと市民権と『バイセンテニアル・マン』

gigazine.net

少し古いニュースですが、サウジアラビアでロボットが市民権を取得したそうです。このニュースを聞いて、古いSF読者ならばアイザックアシモフの名作『バイセンテニアル・マン』を思い起こす方もいるのではないでしょうか?

アイザック・アシモフは私が最も好きなSF作家ですが、その彼の作品の中で一つだけ選ぶとしたら、迷いなくこの『バイセンテニアル・マン』を選びます。この作品は、偶然の産物として自我を持つロボットとして生み出されたアンドリューが、ロボットから一人の人間となる過程を描いた物語です。アンドリューは人間になるため、機械の体を徐々に生体組織ベースの体へ移行してゆくのですが、体の組成や見た目がどれだけ人間に近づこうとも、ロボットとして生まれたアンドリューを社会は人間とはみなしません。そこでアンドリューは法廷闘争や政治家への働きかけなど、社会的に自らを人間と認めさせる戦いに挑みますが、ロボットへの偏見が強い(アシモフの描くロボット社会は根強いフランケンシュタイン・コンプレックスの存在が特徴です)社会はその願いを拒否し続けます。万策尽きたアンドリューはついに最後の手段を選ぶことになる...というの粗筋ですが、興味を持たれたらぜひお読みいただきたい作品です。ちなみに以前本作を映画化した『アンドリューNDR114』を「駄作」と書きましたが、その理由は多々あるのですが、最大のものはこの『バイセンテニアル・マン』と言うタイトルの意味が分かるラストシーンを映画では台無しにしてしまっていることなのですね。私はSF史上でも屈指の名シーンだと思っているのですが...

『バイセンテニアル・マン』でロボットが人間となるための最後の関門が、人間社会から「人間」と認められることだったのですが、現実社会でははやくもそのハードルを越える国が出てきました。むろんこれは国家経済の転換を図るサウジアラビアの広報の一環であり、象徴的な意味すら持たないとは思いますが、長い目で見ると一つのエポックメイキングな出来事になるかもしれません。一つの「事例」が存在することはその後の法律では大きな意味を持つことですから。

ロボット技術、AI、義肢によるサイボーグ技術は今後急速に発展することでしょうが、その先に待つのは「人間」という定義の揺らぎです。生まれ持った肉体をどこまで維持することが人間としての境界となるのか?AIを組み込まれたロボットは法律的にどのように定義されるのか?SFでしかありえなかった問いが早晩現実に持ち込まれることになるでしょう。それが10年後なのか、100年後なのかと言うスピードだけが予測できない。そんな気がします。AIでもロボットでも生きているうちに最初のアンドリューに出会えることになれば興味深いですね。

ヨーロッパのポピュリズム

今年の政治関連のキーワードは「ポピュリズム」だと思いますが、日本ではどうにもトランプ大統領の言動ばかり取り上げられがちです。実のところそれを批判する立場であるEU側のお膝元もずいぶんきな臭くなってきました。

EUの中でも特に、オーストリアポーランドの状況がちょっと心配ですね。

www.sankei.com

www.newsweekjapan.jp

NHKをはじめ地上波のニュースではあまり取り上げられないのですが、BSのワールドニュースを見ているとBBC(イギリス)やF2(フランス)では懸念をもって取り上げられているようです。今年3月のオランダ下院選では極右政党と指摘される自由党が政権を取るのでは、と懸念され、日本でもその結果がそれなりに報道されました(結果、自由党議席を伸ばすも政権には届かず)が、その後も続くEUのポピュリズムへの潮流についてフォローしている局はほとんど無いように思えます。ドイツにおいてメルケル政権のレームダック化の兆候と、右派政党が躍進しつつある状況において、上記両国の右傾化がすすむ状況は実のところ懸念が大きいでしょう。第2次世界大戦において、ナチスに併合されたオーストリアと侵略されたポーランドの両国は、EUの枠内でも政治的にドイツを牽制する役割を担う立場にあるはずですが、むしろ右派の連帯がそこに生まれつつあるとすれば、ヨーロッパの政治状況が一気に流動化する懸念もあります。

ポピュリズムが台頭する現在、そのターゲットとなるEUと言う組織と理念はまさしく正念場を迎えつつあります。この先数年が、この国家的実験ともいえる取り組みが主権国家の枠組みを超える成果を挙げるか、雲散霧消し混迷の悪夢となるかの分岐点となるような気がしてなりません。

 

CATVチャンネル考

CATVについて少し書いてみます。

もう何年も地上波のTVをほとんど見ない生活が続いています。せいぜいNHKで朝晩のニュースを見るくらいでしょうか?TVはもっぱらBS、CSのチャンネルをザッピングしている状態ですね。

CS放送では映画、音楽、アニメ、ドラマ等様々なジャンルのチャンネルがありますが、一番視聴しているのは「ディスカバリー」「ヒストリー」「ナショナルジオグラフィック」のドキュメンタリー系3チャンネルです。同じドキュメンタリー系と言いつつ3チャンネルそれぞれの特色があり、番組の傾向もかなり異なります。個人的な感想ですが、エンタメ系の要素と教養系の要素それぞれの強さで比較すると、

←教養系                             エンタメ系→

ナショジオ>>>>>>ディスカバリー>>>>>>>>>>>>>>>ヒストリー

こんな感じでしょうか?

ヒストリーは一番エンタメ色が強いですね。「古代の宇宙人」とか「アメリカンリッパー」のようなタブロイドチックな番組が多いです。ある意味一番とっつきやすいと言えるはずなのですが、扱う内容にエッジが効きすぎていることで相殺されている感じです。

ナショジオはその名を冠するだけあり3チャンネルの中では最も真面目な番組の比率が多いでしょう。各国の自然や野生動物をテーマにした番組や、「世界の巨大工場シリーズ」など産業や軍事をテーマにした番組が多いです。また、「ジーニアス」「ザ・ステイト」など重厚なドラマも制作しています。

ディスカバリーはその中間で、やや教養よりにバランスが取れています。扱う番組のバラエティも最も豊富ですね。むしろ広報ではナショジオ張りに真面目なチャンネルぶっていながら時折ネタとしか思えないような番組を突っ込んでくるので油断できません。「潜入!兄弟アナコンダの体の中」みたいな往年の川口浩探検隊を思わせる番組を大真面目にやらかすのがこのチャンネルです。

私は車、バイク関係の番組が好きなので各チャンネルともよく見ます。頻度で言えばディスカバリーを最も見ていますね。「名車再生!クラッシックカーディーラーズ」もようやく最新シーズンの放映が決まり、いまから楽しみです。

response.jp